警告を与える預言者のつもりなのか

チア・シード

エゼキエル33:7-11   


対象はイスラエルの家です。イスラエルの家は、エゼキエルの目の前にあった実際の相手であり、同胞であるのですが、これを読む人にとってはどうでしょうか。後のイスラエルの民がこれを読むとき、昔のこととして受け止めるのでしょうか。それともこの事件を、今現在のこととして気を引き締めるに至ったのでしょうか。
 
かつての教訓に過ぎないのだとしたら、警告という一般的なことについて理解する程度のこととなります。他人事のようにこの記事を見渡すことが、即座にダメだと言うつもりはありません。けれども、自分がエゼキエルの役割なのだと安易に思い込み、世の人々に警告を与えるのだと考えていたのなら、直りようがないかもしれません。
 
キリスト者は、確かに見張りであってもよいでしょう。警告を与える側であるかもしれません。それは一つの責任を果たす道に違いありません。しかし、自分が正にその警告を今受けている者だという視点が欠落している者がいます。立ち帰らねばならない悪しき道に自分がいるなどとは、微塵も思わないのです。
 
背きと罪は自分たちの上にある、とイスラエルの家が自覚しているなら、主はあなたが死ぬことを望んではいない、と言います。滅びることを喜ぶようなことはないのです。だから立ち帰れ、とエゼキエルを通じてもたらされたことが、自分のことなのだ、と理解しているならば、幸いです。当事者意識の有無が、やはりここでも大切なのです。
 
どうして死んでよかろうか。主からこのように声をかけられるなら、本当に幸いです。それは、こちら側の功績によるのではありません。全く以て神からのこと、恵みにほかなりません。主が決め、主から及ぶ結果がそれです。私たちは背きと罪の中にあり、私たちの上にそれがあります。いつの間にか自分は正義だと高慢になっていないか自省が必要です。
 
キリスト者よ、本当にそう思うか。自分こそが、エゼキエルの忠告を今受けていると考えることができるか。そうであるからこそ、キリストがそれを庇って、いわば盾となってくださったのです。自分は平気なのだ、忠実な僕なのだ、などと自認することがあってはなりません。自分で自分は立派な者だなどと自惚れてはならないのです。


Takapan
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