人間が主張する正義なるもの

チア・シード

エゼキエル33:10-13   


エゼキエルは預言者として、見張りの使命を受け、またそれを守り民に伝えました。ターゲットは悪しき者です。神に立ち帰れと告げるしかない相手です。預言者の仕事は、そこまで。それを民がどう聞き行動するかによって、民の運命は定まります。この仕組みもまた告げ知らせておかなければなりません。
 
するとどうやら、民は心を打たれたようです。私たちは、これを聞き入れないありさまをすぐに想像しがちですが、聖書にはこのような警告をわりとすんなりと受け容れるケースもいくつか描かれています。ああ私たちは神に背き罪を犯した。もはや生き延びる道はない。絶望の溜息が聞こえてきます。もちろんそこで終わってはなりませんが、慰めは必要です。
 
エゼキエルは、神から教えられます。主なる神は、悪しき者の死を喜ぶお方ではないのです。いまからでも、どこからでも、主に立ち帰るほうがどれだけうれしいことでしょうか。立ち帰れ、方向転換をせよ、死んではならない。神が預言者の口を借りて、渾身の呼びかけを人々にするのです。どこか無邪気な、あるいは健気な神の姿ではありますまいか。
 
人間のもつ正義など、あてにならないものであることを、きちんと告げておくようにも命じられています。ひとか自分でこれが正しいと口にするのは、自己義認したい場合です。神とは無関係に、自分を正しい者と判定します。己れを神とするのです。しかしそんなもので自分を救えるはずがありません。自分の罪を自分で処分できないのが人間という立場です。
 
実はここに、信じがたいことが記されています。「私」が正しい者にあなたは必ず生きると言っても、その人が自分の正義に頼って不正を行うなら、その人は死ぬというのです。神の言葉が存在と同一であるはずですが、ひとの不正は神の言葉を無にする驚異的な力をもつというのです。この「私」は神でなく、預言者という人間であるならばそれでよいのですが。


Takapan
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