エゼキエルの召命に見るもの

チア・シード

エゼキエル2:3-7   


捕囚の民と共にいたエゼキエルは、神の幻を見せられます。不思議な光景を見たままに記しましたが、いま主が「立て」と言われたとき、霊がエゼキエルの中に入ったといいます。このとき「人の子よ」と主が呼びかけますが、エゼキエル書で94節にわたり登場する「人の子」の最初の呼びかけとなります。ここから主の預言者としての歩みが始まります。
 
主はこのとき、派遣を告げました。反逆の民イスラエルへと遣わすというのです。誰が好んで反逆の人々へ入り込んで伝えたりするでしょうか。主に命じられるのでなければ、否命じられても行こうとは思わないでしょう。私たちは、ニネベへ行けと言われて逃げた預言者ヨナを嗤うことなどできないのです。
 
いま彼らは主に背いている。先祖もそうだった。けれども、エゼキエルの傍に見える捕囚の民は、いわばイスラエルのエリート層であり、後に信仰復興を果たし聖書を編むなどの業績を遺す人々です。反逆の家というのはこの捕囚の民ではなく、祖国イスラエルの地に置かれていた人々のことを言っているのでしょうか。エゼキエルはそこに遣わされるのか。
 
ちょっとした解説書や礼拝説教には、このあたりのことが曖昧にされています。もっと直にそのエゼキエルの視線や立場というものをはっきりと語って戴きたい。抽象的に分かった気持ちになり、自分の目線から分かりやすいように説明するばかりで、このときエゼキエルが何をどう感じたのかをリアルに示してくれることが、なかなかないのです。
 
恐らくは、捕囚の民のほうを、反逆の家と呼んでいるのだと考えてみます。そしてエゼキエルにより主に立ち帰り、聖書の成立へ向けて動き始めることになる、というプランを私は想定します。エゼキエルは捕囚の民を立ち直らせ、主の書を制作するまでの大きな仕事を成したのだ、と。しかし、事はそう簡単に進むわけではありませんでした。
 
彼らは当然、拒むはずです。あざみと茨に押しつけられ、蠍の上に座らされます。それでも恐れるな。そう脅されても、そんな言葉を恐れるな。たじろぐな。拒まれようとも主の言葉を語れ。どうせ反逆するということは決まっているのだ。それでも語れ。主の預言者として主の命ずるままに、主の言葉を語るのだ。エゼキエルは厳しい命を受けます。
 
そうだ。私たちも主の言葉を語らなければならない。勇ましく御言葉を伝えましょう――とくればよいのでしょうか。私たちがエゼキエルなのでしょうか。否、このエゼキエルの役割を真に体現したのは、人の子イエス・キリストではなかったでしょうか。反逆の人々を恐れず神の国の言葉を語り、命を棄てることになり、しかし命を与えられたキリストこそ。


Takapan
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