私たちもまた預言者ではないのか

チア・シード

エゼキエル2:1-10   


自分の足で立て、と呼びかけられたエゼキエルは、中に入ってきた霊により、立たせられました。これでも自分の足で立った、ということになっています。私たちが自分で立ったと考えているときも、実は霊により力を受けていたのだということがあるわけです。遣わされる先は反逆の家であるといい、主に逆らうイスラエルの姿を表しています。
 
主なる神の名は、そこに有効なのでしょうか。エゼキエルがその使命を帯びて遣わされますが、そこで、これこそ預言者であるということを示せと言われます。おまえのすることはひたすら主の言葉を語ることだ。彼らが聞こうが拒もうが、語らなければならない。反逆の家へ語ることを恐れるな。主の与えるものを食べよ。主の言葉の巻物がそれなのだ。
 
豊かなイメージの中でエゼキエルが召命を受けて立ち上がり、聞かぬところへ神の言葉を語り告げるべきことが言い渡されています。他でも言いましたが、立ち上がらされたその後すぐに、語り始めよ、と言われています。それからようやく、主の言葉を聞けと告げられています。これは順序としては逆であるように見えて仕方がありません。
 
聞いてから語るのなら分かるのですが、語ってから聞けというのです。巻物を食べるのは、聞くことのひとつの象徴ですから。ただ、私の救い出された過程を思い出すと、この図式に沿っていることに驚きを感じます。よくよく聖書の深いところを学び知る、だんだん分かっていくというのは、救われて語り始めた、その後のことであったのです。
 
私たちは学び続けなければなりません。聖書から教えられ続けなければなりません。この順番にも納得がいくものです。まず語るという宣言から入ることには、本当は不思議さはないと言うことができるような気がするのです。聖書の中に残されている真実の記録は、深い意味があって、あり得べきこと、理にかなったことがあるとすべきです。
 
さて、私たちはいまこうしてエゼキエルと共にこの体験をすることが、果たしてできるのでしょうか。預言者というのは、遠い昔の出来事であるか、現代にそれらしい人がいたとしても、自分とは別のこと、他人事でしかないのでしょうか。エゼキエルの時と同じ主の霊が、私の内に入ってきていることに、気がつかないのでしょうか。


Takapan
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