それぞれの物語

チア・シード

エゼキエル18:30-32   


主は、人の死を喜びはしない。サディスティックにいじめるのが目的ではないのだ。だから、立ち帰って生きよ。エゼキエルが叫ぶように告げるのは、イスラエルに対しての、張り裂けかねない胸の内をぶつけたかのように見えます。どうしてあなたがたは死のうとするのか。これはイスラエル一般に向けてでなく、いま私への言葉として聞こえます。
 
イスラエルの家よ。この「家」は単数であり、様々異なるものの集まりではなく、もはや一つなのだという意識の中で呼びかけていることが分かります。一つの対象に、呼びかけています。でも、そこにはいろいろな人間がいるのではないでしょうか。今度は、属する一人ひとりを見渡しながら、それぞれの道に従って裁くのだ、と説明します。
 
そこにあるのは、諸々の背きでした。私たちは、それぞれいろいろな仕方で、神に背いています。かつての背きを抱えているという意味では、誰も免れないでしょう。「お前たちのすべての背きから立ち帰れ」という言葉は、一人ひとり異なる背きでありながら、それぞれが自己の問題として、主に立ち帰らなければならないことを考えさせています。
 
私たちは過ちをしたではありませんか。過ちの記憶を有しているではありませんか。消えることのない黒歴史があるために、神に従うなどと決意しても、悪魔が、おまえってやつはあんなことをしたではないか、と引き戻して主から遠ざけようとするのです。この引き離しの力を避けることはできませんが、主に立ち帰るならば、きっと抵抗できます。
 
それどころか、圧倒的な神の勝利の側へ、引き寄せられることを求めましょう。過ちは消えません。そしてまた犯してしまいます。けれども、それは背きとは違います。背きは、過ちを神が赦さず、神と決定的に離反すると思い込んでしまうことです。背きは捨て去ることができます。神の赦しは、私たちが立ち帰るとき、もう背きではなくなるのです。
 
これは福音です。そこには、新しい心と霊が生まれます。死に終わらない命が与えられます。生きる道が与えられます。では、具体的にどうやって背きから立ち帰ることができるのでしょうか。背きは、自分の力や意志で投げ捨てることが、できるのでしょうか。そこが、新約の課題となります。イエス・キリストの十字架を信頼するとよいのです。
 
キリストが、現実の歴史の中に出現しました。それが、すべての問題を解決する道となりました。旧約聖書で隠されていた、すべての謎を解いたのです。重く閉ざされた扉も、一本の細い鍵で、簡単に開きます。無理矢理意志を通そうとする暴力も、超能力も、何も要りません。キリストという小さな一つの鍵が、すべての物語を開いていったのです。


Takapan
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