死を喜ばない

チア・シード

エゼキエル18:30-32   


主はすべての人が救われるのを望んでいる、という表現を見ると、これは、神がすべての人を一人残らず無条件に救うのだ、と考える人がいます。それならば、他の裁きの言葉は皆嘘になってしまいます。エゼキエルの預言の中でも、神が誰の死をも喜ばないという言葉が見えました。これも同様で、神はただ、誰の死をも喜ばない、と言っているだけです。
 
喜ばないからそうしたことは起こらない、という理屈にはなりそうにありません。神が望まないことも、自ら暗闇へ墜ちていくことについては、神に責任を負わせることは難しいのではないでしょうか。エゼキエルは、どうして死のうとするのか、とイスラエルの民に問いかけます。どうしてわざわざこの命の主に背反するのか、と問うのです。
 
主から離れるその背きから立ち帰れ、と声をかけます。あなたの過ちは必ずしも躓きとなってしまうことはありません。ここに希望があります。このことに気づきたいと思います。過ちや失敗が、それだけでもう決定的なことにはならない、というのです。びくびくと誤りを恐れるのではなく、大胆にタラントを活用させてみましょう。
 
ダビデは、このカテゴリーに入ったように思われます。とんでもない過ちを犯しました。でも祝福が限りなく及びました。ダビデは主に背きませんでした。過ちは一つの背きではあっても、それをも投げ捨てました。新約の語で言えば、悔い改めたのです。常に目の前に主を置くという姿勢を崩さなかった点にかけては、ダビデは大した人物です。
 
自ら新しい心と新しい霊を作り出せ、という言葉にはレトリックを感じます。神が、あるいは神の霊が作用するのです。人が創造するものではないから、「自ら」というのは、自分が自由なところからそれを選び、主に従う決意をして、というように考えてみたいと思います。その心や霊が、自分の力で創り出せる、とするのは早計な気がします。
 
これがチャンスだぞ。そう与えられているのに、見逃してしまうと、その道は死の道となります。さあおまえはどのコースを往くつもりか、それはおまえが決めるのだ。悪しき選択をすることを、わたしは喜ぶ者ではないぞ。主はそう構えて、私たちをご覧になっています。その一方で、「死ぬな」「生きよ」とも私たちに向けて告げるのです。


Takapan
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