個人の責任と救い

チア・シード

エゼキエル18:21-32   


現代では常識のように考えられますが、責任が個人に寄せられるということは、旧約の世界では珍しい部類に入ります。エゼキエル書の時代には思想も展開したのだと理解もできましょうが、律法そのものの捉え方の変化にも配慮する必要があるでしょうか。預言者はそれまで、イスラエル民族の罪を指摘するばかりでした。
 
せいぜい指導者たちの無責任さと主への背信を突きつけるくらいで、民衆は常に一括りで扱われる存在に過ぎませんでした。個性は認められません。但し、時折一人の罪が挙げられることはありました。アカンの罪はアコルの谷を理由づけ、ミディアン人の女を連れ込んだイスラエル人を消したピネハスは祭司の模範とされました。同じ名のピネハスでも、エリの息子のほうは悲惨な死を迎えています。
 
すべてこれらの滅びは、個人的な罪によるものでした。但し、どれもが神に対する罪であったという点には注目しておきたいと思います。道徳的に悪いことをした、というわけではないのです。それでこのエゼキエルの告げる個人主義も、神に対する罪や悪という中で捉えることは可能だと思われます。
 
18章の初めからその具体的な形が示されていました。いつ私がそのようなことをしましたか、というマタイ25章の話と重なる思いがします。エゼキエルなりの正しさや正義の考え方が反映されているのでしょうが、より問題としているのは、子孫への罪の責任の担い方です。千代までもというのは大袈裟ではあるにしても、三代四代までという律法を確かにありました。エゼキエルはそれを取り払ってしまったのです。
 
死を以て担う責任は、当人のみにある。今の時代からすると当然ではありますが、一族郎党の死で罰したり滅ぼしたりしていた旧約の歴史からすると、目を見張るものがあります。江戸時代の日本でも似たようなものではなかったでしょうか。連帯責任とか自己責任とか、日本でよくひとを裁くときの冷たい言葉が同時に響いてくるような気がします。
 
この悪人たる者、主の道は正しくないと口にすることが挙げられています。その目から見れば、正義は自分の反対の極にありますから、自分を正しいとすれば、正義なる存在も正しくないこととしてしまうのです。背きから目を覚ませ。新しい感覚を霊をもて。主は悪人の死すら喜ばないというのです。正義の軸を自分から神に換え、生きよと呼びかけているのです。これは新約では、悔い改めよ、と表現しています。


Takapan
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