生きるか死ぬか、それが問題だ

チア・シード

エゼキエル18:14-20   


父が酸いぶどうを食べると、子の歯が浮く。そういう諺があったそうです。が、主がこれをもう口にすることのなくなる世がくる、と宣します。そもそもすべての命は主のもの、よって死ぬということは、神に属する問題となっていました。命を司る神に対する罪は、死を意味します。しかし、父が罪を犯せば、子もその罰を受ける、と諺は教えます。
 
善人の子が悪人であった場合は、その悪人が死ぬ。分かります。この悪人の子が善人であった場合、この善人は生きる。諺は、これを否定する見解でした。旧約聖書に、そのように解釈できる箇所があるにはあります。だから聖書研究者は、親の罪が子に報いると考えるのは正当だとしたのです。しかしここで主は、そうではない、としています。
 
待てよ。悪人は死ぬと言われながら、子をもうけています。悪人は、子が生まれるまでは死んでいません。また、善人が永遠に生きるはずもなく、善人もやがて死にます。いったいこれらの話は、善人や悪人が「いつ」生きるあるいは死ぬと言っているのでしょうか。百歳まで生きるかどうか、という条件なら検証もできるでしょうが、そうではありません。
 
子が、その父の過ちの故に死ぬことはない、というようなことも言っています。これが、あの諺に対する反証のようなものになりましょうか。生きることになる者は、どんなことをするというのか。偶像に心を寄せず、人を助け、不正なことをしないのだそうです。主の掟、神の言葉に従ったということです。
 
するとこれは、善行がひとを救うというように読めなくもありません。そのような側面があったとしても構わないだろうと私は思います。それが原理ではない、という点だけ確認しておけばよいのです。そんなはずはない、と決めてしまう必要は全くないのです。行いの実は本人が受ける、これがここで伝えたい原理であればよいのです。
 
このとき「死ぬ」は、死罪という扱いだとも考えられるでしょう。善人は死罪とはならないのですから。また、霊的な死を意味すると見てもよいかもしれません。神の世界ではこの「生きる」と「死ぬ」は、生物学的なものでもないし、社会学的なものでもない、と考えてみるわけです。なにも、霊肉を二元的に置くのではないのですが。
 
エゼキエルは、それがどういうことであるのかを教えはしません。私たちはこのミステリーを、新約の光を照らして読み解こうとします。イエス・キリストを通して、生死を口にすることになります。キリストの語る「命」というものを根柢に置きます。私たちはこの福音により、キリストの命を生きてゆくことになるのです。


Takapan
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