個人の責任を問うことへの刷新
チア・シード
エゼキエル18:1-20
「父が酸っぱいぶどうを食べると、子どもの歯が浮く」という諺を、あなたがたイスラエルで、口にすることは二度とない。力強い宣言がなされています。以下の長い説明は実にくどく、これでもか、というほどに、この言葉の意味を具体的に分かりやすく伝えようとしています。「父の因果が子に報い」という言い伝えが無効である、ということです。
「もし人が正しく、公正と正義を行い」「私の方を守り、真実を行うなら、彼こそは正しい者であり、必ず活きる」と言いたいのです。当人が何をしたか、当人はどうであったか、それだけが、その人に与えられる報いの根拠だ、というのです。だから逆に、その正しき者の子が悪事を犯すなら必ず死ぬのです。責任は、あくまでも自身にあるのです。
普通ならこれで実例は終わるであろうに、エゼキエルはもう一段加えます。その悪しき者の子が善を行ったならば、「必ず生きる」と言うのです。これで「善→悪」「悪→善」のリレーがどちらも成り立たないことを証明するというわけです。論理が徹底しています。「罪を犯した者が死ぬ」のであり、正義を行う者は「必ず生きる」のです。
「正しき者の義はその人の上にあり、悪しき者の悪はその人の上に帰す」というのが、すべてのまとめになっています。当たり前ではないか、と思う人がいるかもしれません。でもそうなら、どうして私たちは「祟り」などということを口にし、気にするのでしょうか。鎮霊のために法外な値段の壺を買わせようとする輩の言いなりになるのでしょうか。
旧約聖書の場合、さらに具合が悪いことに、たとえば出エジプト記34:6-7で、「幾千代にわたって慈しみを守り」「父の罪を子や孫に/さらに三代、四代までも問う方」などと主が宣言してしまっているのです。エゼキエルはこれを覆しました。せいぜい「すべての命は私のものである」というテーゼが貫かれているようにしか見えません。