反逆の家は昔話ではない

チア・シード

エゼキエル17:19-24   


反逆の家へ向けて言え(17:12)、とエゼキエルは、神から言葉を預かります。かつての契約をその頭上に報いる、という形で、バビロン捕囚の意義を明らかにするものでした。バビロン軍に反逆してエジプトと同盟を結ぼうとしたことが、その事態をつくったのです。イスラエルの家の子らは、悉く反逆の家だと呼ばれます。それがエゼキエル書です。
 
どうしてエゼキエルからして、イスラエルの家は反逆の家だと断定されたのでしょうか。不実なのです。実を結ばないのです。神と結びついていないのです。神と出会うことなく、自分たちの勝手な印象で、神を定めてきたのです。この反逆の家の子らの言うことは、一見尤もらしいものです。明らかに偽物だと分かるような代物ではありません。
 
しかも、偽物を示すことにより、いかにも自分は正当であるかのように思わせるテクニックまで用います。だが、その己れが全く的を外しているわけです。潜在的に自らそれを察知しているから、自ら調子の良いことを言っておけば、信用が成り立つと考えているのでしょうが、どこか寒々としています。エゼキエルは、それこそ背信なのだ、と言います。
 
やがて目の前に、主の報復が現れたとき、初めて反逆の家は、自分と神との関係の本当の意味を知ることになるだろう、とエゼキエルは告げます。しかし主の復興するイスラエルは、それとは全く別のものとなります。主の植えた木がそびえ、実をつけます。鳥が枝にとまり、命の唄が奏でられます。主は人の価値づける気の姿すら、変えてしまいます。
 
それは主がなすのです。エゼキエルの具体的な描写は、主が何をするのか、を如実に伝えます。そこにはかなりの説明がなされています。できるだけ誤解が生じにくいようになっていると思います。そしてそれは同時に、現在の私たちにも起こっているのだ、と分からせるものとなっています。そう、教会やキリスト教を名のる世界のど真ん中に。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります