ぶどうの木のリアリティ

チア・シード

エゼキエル15:1-8   


ぶどうの木の幹は、よく曲がっています。材木や板としての利用は殆ど期待できません。風変わりなものを好む人が、特殊なデザインとしてお洒落に用いるのは見たことがありますが、通常の板としての利用価値はありません。よくぞこの曲がり方、とすら思えます。古代イスラエルでは、使い道はなかったのではないかと思われます。
 
但し、薪としては面白いものであるそうです。木の皮は火が点くと、パチパチと音を立てて燃えるとのことです。今でも、ムードのある炎として利用できるかもしれません。暖かな炎を音でも演出するのに相応しいでしょう。ぶどうの木は、地下深くに根を伸ばして必死で水を吸い上げます。水分が多いために、そういう音や燃え方をするのかもしれません。
 
よほど長い時間乾燥させないと、薪としては使えないのではないでしょうか。それなりに長い目で見て手入れをされた、ということになるようにも思えます。主は、この樹材になぞらえて、おまえたちを火に投げ入れる、と告げます。確かにイスラエルは、古来ぶどうの木に喩えられ、なぞらえられていました。
 
生ぬるい樹液が、じわじわといつまでも出てくるのかもしれません。だとすれば、それは燃料としても中途半端だと言われているようにも見えます。エルサレムの住人の信仰心もまた、そういう中途半端なものだと言われているようにも聞こえます。しかしこのとき、主が彼らに顔を向けるとの言葉が、目に留まります。
 
苦しみの中で火を逃れてきたとしても、主はそれを待ち構えて顔を合わせているという情景がそこにあるのです。私が彼らに顔を向けるとき、あなたがたは、私が主であることを知るようになります。そのときあなたがたは、火の中の彼らとは別人となります。救われた者たちだと言われるのであり、主を知るのだ、と認められることになるのでしょう。
 
彼らが背信の罪を犯したことを主が見たのか、預言を聞き入れた者たちがこの姿を幻の中に見ているのか、分かりません。時間軸もまともではありません。まともな物語ではありません。何がどうなっているか、理性では説明できません。これは預言です。ぶどうの木を知ることによって、神のなすことが現実味を帯びれば、それだけでよいのです。


Takapan
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