信用ならぬモーセが告げても

チア・シード

出エジプト6:2-13   


モーセはいきなり使命を背負わされ、主に命じられるままにファラオに交渉を続けた結果、イスラエルの民は余計に苛酷な労働を強いられるようになりました。そのためモーセは民に恨まれるようになりました。それでモーセは神に不満を述べます。でも神は、先を見通しているので動じません。主の名にかけて果たすべきことがあり、当然実現するのです。
 
民の呻きを主は聞いている。この苦役からも逃れることができる。約束の地は確かにあるのだ。主はこのことをモーセに告げ、民に知らせるようにと促します。口が重いと予め言い訳していたモーセも、アロンという弁舌家を与えられているので、主の命令を素直に受けます。エジプトを脱出し、アブラハム・イサク・ヤコブに与えると言った地を必ずや与えよう。
 
モーセは約束の土地の話をイスラエルの民に知らせますが、人々は落胆し、さらに苛酷になった労働のために、モーセの言うことを聞こうとはしませんでした。無理もありません。疲労困憊は人をこのようにさせてしまうものです。良い知らせを耳と心に入れることを拒みます。しかし、そもそも披露していなくても、このような夢物語、信用できるでしょうか。
 
モーセが主に、イスラエルの人々でさえ言うことを聞かない、と訴えましたが、当然です。ましてファラオが、はいそうですか、と聞く訳がありません。話の導き手は、ここで少し間を置いて、再びモーセが口べたを理由にもちだすことで話を振り出しに戻していますが、民にとりモーセのせいでさらに悪い事態に陥ったのは明らかです。
 
あなただったら、このようなリーダーを信じますか。いえ、このようなモーセが信用ならないのは当然でしょう。イスラエルの人々が神の言葉を信じない不信仰だ、などと言い咎める資格が、私たちにあるでしょうか。どだいモーセの話を信用するなどということのほうが、無理な注文ではないでしょうか。
 
私たちは、自分では福音と信じ、このイエス・キリストの救いを人々に告げ知らせようと張り切っているでしょう。けれども、いくら自分にとり福音でも、そんな話が信用されるはずがない、という前提のあることを知りましょう。まして、人々のこの世の労働で疲れ切っています。これを受け容れてもらえることは、殆ど奇蹟のようにすら思えます。


Takapan
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