雄弁でないこと

チア・シード

出エジプト4:10-17   


雄弁とは何でしょうか。律法を見る限り、モーセは実によく語っています。それとも、これはアロンが現実に語ったことを、モーセが言った、というように記録しているのでしょうか。実際、モーセに代わってアロンが語ったということになっているので、モーセが言った、は声としてはアロンだった、というお約束になっているのかもしれません。
 
それもありうるとしておきましょう。ただ、アロン単独での言葉もあります。それは、モーセ不在のときの乱痴気騒ぎの時でした。あの金の子牛事件ではアロンが語っています。勝手に金の子牛ができたなどという嘘を言ったのですが、そんな嘘が雄弁であるのだとしたら、この論理はどうかしています。そしてアロンはこのことで咎められていません。
 
このようなアロンが尊崇されており、神の板の入った箱を運ぶ牛がよろめいたために手を伸ばしたウザが罰され殺されたという不条理を私はどうしても理解できません。アロンに撮り、モーセは神となるのだといいます。アロンはモーセの口になるというモーセの言葉は、かくしてイスラエルの民にとり、神の言葉となったのでした。
 
アロンにとって、モーセは神だといいます。アロンはモーセの口になるということで、これから先、イスラエルの民に向けてはモーセが実質語ったのだけれども、アロンがスピーカーとなり音を発した、という図式が成り立つようになるのです。ところでモーセはよく「謙虚」だと言われますが、今日の箇所がそれを表していると言えるでしょうか。
 
雄弁ではないから代表にはなれません、と引っ込むのです。まるで責任逃れのための言い訳のようには聞こえないでしょうか。口が重い、舌が重いなどというのが理由だというなら、誰でも何でも断ることができるような気がします。何かに選ばれても、自分はできません、下手ですから、それで断れるほど、世の中は甘くはありません。
 
ところで私が雄弁ということで思い起こすのは、古代ギリシアのソフィストと呼ばれる人たちでした。雄弁が美点なら、ソフィストたちは文句なしに立派なのですが、ソクラテスは、あるいはプラントは、ちっともそのようには考えませんでした。口先は巧いが、実は何も物事の本質を理解はしていないのです。ソクラテスのいいおもちゃとなりました。
 
そこでは弁論術が幅を利かせていました。市民は労働などしません。奴隷制社会です。暇な市民は、議論が大好きでした。労働しなければ食うものではない、と言ったのがパウロかどうかはともかく、聖書の時代のユダヤ人の姿とは違います。しかしイエスと弟子たちも、結局労働はしていないのですから、事態は少し複雑です。
 
かのギリシアの弁論術と、ユダヤの雄弁とは比較対照の事柄にはなりません。古代ギリシアよりさらに古い時代に、モーセは神とこうして渡り合い、雄弁云々でつばぜり合いをしているのです。主は、口・耳・目を話題に持ち出して、主は口と共にあると宣言します。語るべきことを主から受けるというお墨付きで、モーセの言葉は神の言葉となりました。
 
だのに、モーセは退こうとしたのです。神の言葉から逃げようとしたヨナのほかに、こんな預言者がいたでしょうか。モーセを預言者としてよいかどうか分かりませんが、神と語り合い、神の言葉を広く告げた点では、まさにモーセは預言者です。主の怒りも尤もです。ただ、この主からの迫りは、私とは関係がない、とすることもできないと思うのです。


Takapan
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