神との出会い

チア・シード

出エジプト3:1-12   


モーセの柴の箇所、として有名な場面です。イスラエルにとっては、そのアイデンティティに関わるほどの記事です。モーセがイスラエルの民を、苛酷な労働を課すエジプトから導き出します。奴隷状態から自由の身へ、約束の地へと旅立つその脱出が、イスラエルと神との関係の具体的な始まりでありました。この旅の中で神の名が示され、明確に契約を結びます。
 
アブラハムたち父祖たちも、神と対話をしました。しかし、多くは神の声を聞くばかりでした。しかしもへー背は、顔と顔を合わせてと称させるほどに神に向き合い、神と話をしました。神と出会い、契約を交わすという大役を果たすのです。詩編を通じても、この出エジプトの出来事が如何に大きなものであったかが伝わってきます。
 
すっかりミディアン人として生活していたモーセでしたが、突如、そう突然に、炎の中に主の使いが現れたといいます。神ではなく使いというあたり、どのような構造になっているのか、それとも単に言葉の上の問題なのか、神学的な問題にはいま拘泥しません。芝は燃え尽きませんでした。燃えることで自らが焼かれ灰燼と化してしまうような燃え方、つまり身を焦がす燃え方ではなく、燃え尽きない燃え方なのでした。
 
主と出会い、燃やされるということは、単に身を焦がすということとは違いました。自らは生かされて、そして燃えるのです。モーセはこの様子に心を奪われますが、聖書は二度にわたり「道をそれて」と記しています。原語のニュアンスは分かりませんが、何かしら道から離れていく様子を示すことは間違いないでしょう。
 
羊の群れを追うからには、自分の知恵で得たコースというものがあったでしょう。それを、神の出現によって、変更せざるをえなくなったのです。自分が決めたコースに神が介入することにより、私は道を外れて神に近づかなければならなくなります。その外れた私の歩みを、主は目に留めてくださっています。
 
主はモーセの名を呼びます。モーセはそれに応えます。私たちも神に呼ばれ、応えた経験があるでしょうか。聖なるものの前での心得が告げられ、語る主はその身分を明らかにします。エジプトでのイスラエルの民の苦しみを知る神であるといいます。これは、モーセの疑問を解くものであったのではないでしょうか。モーセは神を信頼するのです。
 
主は、民の痛みを体験する神だったのです。その神が約束の地を示し、「いま行け」と命じます。神との出会いは、そこから直ちに「行く」こと、すなわち「行動する」ことを促します。それでも、モーセにはためらいがありました。私は何者なのか、と。どんな名が私にあるというのでしょう。尤もな声です。民の上に立つような力も名も持ち合わせていません。
 
しかし神は「必ずあなたと共にいる」と言いました。イスラエルの神は、モーセ以来、ずっと人と共にいました。出エジプトを果たすモーセとの契約が、新たな出エジプトをしてのイエスの救いへも継続されているのです。そのしるしは、イエスの十字架と復活として現れます。私たちもまた、神と出会う道が備えられているのです。私たちの思惑から、外れた道が。


Takapan
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