神の御名

チア・シード

出エジプト3:13-15   


この3つの節から、どれほどの神学論文が生まれたか知れません。ある意味で、聖書の根幹だとも言えます。神の名が告げられています。稀有です。きっかけは、モーセの弱気でした。まず、モーセが突如神に呼びかけられます。神との出会いがここにありました。おまえを選んだ、さあ行け。急にそんなことを言われて戸惑わない人はいないでしょう。
 
新手の詐欺か何かのようです。共にいることがしるしだ、と言われても、ずいぶん困ったことでしょう。旧約では特に、こうして神に突然呼ばれて困惑する人が多々描かれています。モーセとしては、ここで逆に神に問うことをしました。いったい、神の名は何ですか。名は本質を表すものです。名によって実体が明らかになると考えられています。
 
これは1つの言葉による象徴であり、記号化であるとも言えます。出エジプト記の記者は、私たちとは異なる文化の中でこれを提示しました。「私はいる」と、聖書協会共同訳はぶつけてきました。訳しようがないのです。ふつう「私はある」でよいように思います。端的に存在することです。かつてあり、今あり、これからもある、ということです。
 
「ある」ということが本質であり、時間の制約を受けることなしにあり、滅しないものなのです。変わらないし、動じないのです。少なくとも人間からは、そうとしか言えないのです。なんとも表現ができないわけです。神からこの名が宣言されたとしているところを押さえておきましょう。人が名づけたのではなく、神から与えられたということです。
 
そして、それを伝えよ、といま命じられています。それにしても、「あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主」というように、先祖の神だという宣言に、どれだけの力があったでしょうか。エジプトで何百年と暮らすイスラエル人たちに、これらの父祖の名が、果たして浸透していたのか、私にはよく分かりません。
 
主は宣言します。「これこそ、とこしえに私の名」、永遠代々に渡る名であり、私たちの前にも、いま同じ主の御名が燦然と輝いています。聖書の神は、いまも同一です。これが、私たちが聖書を読む強みです。その神の「名」を、私たちは軽く見ていないでしょうか。改めて問い直されています。問い直されているとの自覚が、あるでしょうか。


Takapan
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