ためらいの向こうにある名

チア・シード

出エジプト3:11-15   


燃える柴に偶然遭遇したモーセは、いきなり何十万というイスラエル民族をエジプトから脱出させる大役を仰せ付かる。私たちは聖書の物語をそれなりに把握しているから、ああそうなんだとただ読んでいくところですが、もしその場に自分が同様の経験をすると、どう思うだろうか。何訳の分からないことを言っているのかと嗤うしかありません。
 
ここでいわばごまかそうとするモーセに対して、それが謙遜であるとか引っ込み思案であるとか評される出来事として片付けられそうになりますが、やはり考えてみるととんでもないことです。いったい誰が、この情況で「はい」と答えられるでしょうか。モーセはたじろぎながら「本当に」という言葉を繰り返し、姿なき存在に応えています。
 
さながら「嘘でしょう」というところでしょうか。けれども相手はどうやら本気です。至って真面目に、共にいると告げ、恰もモーセを通じて民が脱エジプトを果たすのが当然のことのように言いのけています。もうイメージが出来上がっています。絵に描いた餅という言葉がありますが、この餅はやがて本当に棚から落ちてくるようになります。
 
この日本の国にあって、同じように人々をこの地上のものしか分からない世界から脱出させる役割を引き受ける者が、今の時代にも与えられることがあるでしょう。モーセのように、本当に自分が、という疑問はきっとまず襲ってくることでしょう。それを超えてモーセのように運命の流れに乗せられて一気に動いていくようになるものと思われます。
 
が、当初はまず躊躇うことが必定です。モーセはためらいつつも、思いのほか抵抗はしませんでした。ただ弁解めいた質問をすることで、なんとか逃れ退こうとしたようには見えます。神の名を訊かれたらどうするのか。神の回答は今なお謎です。我ありというのが名としてあまりに私たちの理解を超えているからです。
 
それとも、私たちの「名」という概念が、かの時代文化の定める「名」に追いついていないだけかもしれません。キリスト者もまた、いまだ名の分からぬ神を礼拝しているというふうに考えたほうが適切であるかもしれません。言語でも「神」と「主」とは異なりますが、「主」とは名というよりはむしろ称号に過ぎないわけですから。
 
もちろん、イエス・キリストという名を以て祈るように、その名を通して神と出会っているわけですから、あまり深刻に悩む必要はないのかもしれませんが、イスラエルを導いてきた神を描く聖書を私たちが読み信頼する限り、この神は私たちを握り締めて離しはしません。イエス・キリストの十字架を中心に、この絆がつくられているのです。


Takapan
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