追い出すべきもの

チア・シード

出エジプト記34:10-14   


金の子牛事件があり、モーセは改めて十戒の板を受けました。主は自ら宣言します。憐れみ深いゆえ、幾千代も慈しみを施すが、罰することにかけては父の罪を三代四代までも問うのだ、と。いまひとつ曖昧であるように聞こえるのは、その後の歴史を私たちが頭に置いて見ているからでしょう。本当に慈しみは続いたのでしょうか。むしろ逆では、と。
 
モーセは、この主に、民と共にいて進んでください、と願っている場面もありました。主が答えるには、「これは契約だ」。主の業を、唯一この民族だけが見ることになるだろう。おまえたちと共にいる契約を交わそう。契約、それは強い約束です。今日命じることを守り行うならば、異なる民を追い出すとし、彼らとは契約を結ぶなと言います。
 
イスラエルの中に、別の民族を置くならば、それは罠となるのです。その偶像については、全面的に拒むこと。その神々を排するようなことがあってはなりません。主は妬みの神であるからです。妬み、それはいかにも人間的な感情の言葉です。愛してやまないから、おまえをほかの誰にも引き渡したくないのだ、抱きしめたいのだ。そう理解しませんか。
 
この後も、出会う地の原住民たちと共にやっていくとすると、その時の罠が付け加えられていきますし、さらに主の祭りの規定も続きます。これを書き記しておくようにと命じ、それにより契約を締結するのだ、と告げます。モーセは、四十日四十夜を費やしてこうした契約を受け、飲食すらとらず、板に十の言葉を書き記したとされています。
 
この二度目は、神の文字ではなく、モーセの手により書かれたように読めます。主が、民と共にいて、民と共に進むことを、民は知ります。命令通りにするとなると、他の民族、特にこれから進み入って行く地に、元からいた民族を追い出すということになるのですが、本当にそれでよいのでしょうか。現代的な観点からは、これはとんでもないことです。
 
現代人として、そういう眼差しは、あってもよいのだろうと思います。けれども、もっと自分自身の問題に引きつけて考える道も、あってよいと思います。追い出されるべきものを、私の中に私は抱えていないだろうか。追い出すべき悪しきものが、あるはずです。神は、そんな主でないものが心を占領しているのが嫌なのです。それが妬みなのです。


Takapan
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