再出発

チア・シード

出エジプト34:1-9   


以前のと同じような2枚の板。重い指摘です。モーセの名を神は呼び、石の板を与えました。十戒を刻まれていたといいます。しかし、金の子牛を前にして踊り狂っていた民を見て、モーセは怒りのために山の麓で板を打ち砕きます。背信の三千人を殺し(!)、民族は再出発を図ることになります。モーセはまた歩み始めてよいのか、神に問います。
 
いったい私たちは赦されるのか。主は共にいてくださるのか。主を見ることがなくても、主の傍らに一つの場所が与えられるから、その岩の上に立て、と主はモーセに言います。岩の裂け目が、おまえの命を守る。そう保証します。そして、以前のような2枚の板。今度はモーセの手で2枚の板を切り出すことになりました。
 
改めて造られ、再び主の律法が刻まれるその板は、ダビデを通してイスラエルの民があの捕囚となる時まで、保存されていたものです。板はモーセが切り出し、シナイ山の頂へ持参します。モーセは主と共にそこに立ちます。主はモーセの前を過ぎ越します。そこで主自ら、主は憐れみ深く恵みに満ちた神であると宣言するのは少しこそばゆいでしょうか。
 
けれども、モーセが聞き取った神の性格として受け止めれば、納得はできるでしょう。罪を赦すことに豊かであるけれども、その罪は子孫へも問う、と言っています。慈しみが罪を赦すが、罰さずにはおれないのだそうです。なんとも解しがたい言葉を主はぶつけてくるものです。が、弁神論の如くこれを尤もらしい説明でかわすことは控えましょう。
 
但し、父親の罪を「問う」ことが何を示すのか、それはまだはっきりしないような気がします。でもイスラエルの民の罪を、幾千代を経た私たちがいま「問われている」ことは確かです。モーセは旅立つことへと急ぎます。どうか共にいてください、とひれ伏して願うモーセが次に導かれるのは、新しい契約でした。私たちには、キリストが与えられました。


Takapan
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