主の顔を見ないように

チア・シード

出エジプト33:18-23   


金の子牛事件で、イスラエルの民の中に分断が生じました。残ったのは、主につく人々でした。そしてイスラエルの民は再出発を図ります。モーセは、必ず主が共にいてください、と強く願います。主はモーセを名指しで選んだ故に、その願いを聞き入れます。そこでモーセが、主の栄光を示してくださいと主に求めたところで、この箇所が始まります。
 
言葉を途切れ途切れとしながらも、主は続けてモーセにさらに告げます。ポイントは3つありました。まず、良いものをモーセの前に通らせた上で、主の名によって次のことを宣言する、とします。主が恵もうとするものを恵み、憐れもうとするものを憐れむのだ、と。これがまずモーセの心得るべき点でした。
 
それは、主は共にいるし、この民を特別なものとして選んだことの証しとなります。良いものについては十分与えるのだと言います。2つめは、要注意です。主の顔を見ることはままならぬ、ということです。主自身を見て人が生きていることはできない、そのようにかつて主は言っていました。これはイスラエルの常識となりました。
 
この後もイスラエルの人々のDNAに刻まれるほどにまで、厳しく伝えられたことです。いったい、神の顔を見るというのは、どういうことを言うのでしょうか。視覚的に、私たちは理解しようとします。ひとは神の顔を見るほどに、頭を上げて神の前に立つことができるのでしょうか。いつか主の日にそれを経験すると思うのですが。
 
将来の主の日に、顔と顔を合わせて神の栄光を見ることでしょう。その備えでもするかのように、神の顔を仰ごうとする者がいるのでしょうか。否、いま私たちはそんなことを考えてはいけません。そして第3の点は、岩の上に立てと主はモーセに命じたことです。岩の上に立てと言いながらも、岩の裂け目に主がモーセを入れる、とも言いました。
 
主が通り過ぎるまで、恐らく主の顔を見ないようにする、ということなのでしょう。主の手が、モーセの上を覆い隠すのだ、とも言います。手を離したとき、モーセは振り返ることができますが、そのとき見るのは主の顔でなく、後ろ姿なのですから、一安心です。イエスの弟子たちは、イエスの背中を見て歩きました。イエスに従って歩きました。


Takapan
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