寄留者の叫びを主は聞く

チア・シード

出エジプト22:20-26   


イスラエルの精神的支柱となるべき十戒の授与に続いて、出エジプト記は、各論的な法を並べることを始めます。それなりに細かな規定です。古代の法は、こうして掲げられ、運用されていたのでしょう。今回は、寄留者の規定に限定して読みます。日本では、外国籍の人に対して、厳しい方を、恰も国家の威信をかけてのように、ぶつけてきます。
 
また、外国人自身の義務というものを多く要求するように見えます。しかしここでは、寄留者の義務を規定しているようには思えません。寄留者に対するイスラエル人の義務ばかりが並んでいるのです。そればかりか、寄留者を「ひどく苦しめ、彼らが私にしきりに叫ぶなら」、イスラエル人を剣で殺す、とまで言っています。
 
そうまでして寄留者を守るというのは、イスラエル人もかつてエジプトの地で寄留者だったからだ、と聖書は理由づけています。まだ出エジプトの記憶も生々しいようなこの時期、自分らの負った痛みを、他者に対して負わせないようにしようとする精神には、頭が下がります。この記録は、内容からして、カナンの地で書かれたのかもしれません。
 
もしそうなら、出エジプトの出来事とは、かなりの距離感が存在します。アブラハムは信仰の父と崇められていますが、律法となると断然モーセがイスラエルの中心に来ます。モーセが民族を、奴隷状態から脱出させたというふうに捉えると、ここは民族最大のターニングポイントである、と言ってもよいのではないか、という気がします。
 
主は、寄留者の叫びを必ず聞く、と言っています。イエスは、フェニキアの女に対して、非常に冷たく接したことがありました。女は、叫んでいたのではなかったのでしょうか。主はその叫びを聞き入れる、そうモーセは言っています。それは、主が憐れみ深いからです。イスラエル人だけを偏愛していたのではない、というふうに捉えることにします。


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