民の信仰と不平と両面を見よう

チア・シード

出エジプト16:9-12   


エジプトの奴隷状態から解放されたイスラエルの民でしたが、そもそも何らかの計画に基づいた出発であったかというと、きっと何もなかっただろうと思います。真偽のほどは定かではありませんが、男だけで60万ともいわれる人数です。テントを張って宿営するだけならまだしも、食糧はどうするつもりだったのでしょうか。
 
信仰の父アブラハムは主のこえを、故郷を出ました。大した準備もなしに出る信仰はすごいなどと思いますが、それとは比較にならないくらい、出エジプトのほうが大胆です。もっと無謀で無計画な出発でした。慌てて種入れぬパンだけの仕度で、周辺住民から宝物を巻き上げると、意気揚々とエジプトを後に出て行ったのです。
 
私たちはしばしば、イスラエルの民の不平や呟きを愚かなことと評し、非難し軽蔑さえすることがありますが、果たしてそれは妥当なことでしょうか。自分は日常、もっと些細なことで腹を立て不満を吐き、準備ができていませんなどと言い訳しながら、神の命令に待ったをかけて結局神には従わない道を進んでいるようなことがあるのではないでしょうか。
 
食べ物がない、と不平を口にする民に困ったモーセは主から言葉を受けます。それをモーセはアロンに語らせます。モーセがアロンの種となり、アロンが預言者となっています。人々に告げよ。主の前に近づけ。民のほうはこれにちょっと足がすくみます。神に不平をぶちまけたから神が出て来い、と言う。主の前に出ることができるでしょうか。
 
しかし意外や、神は民を罰するようなふうではないという呼び込み。懇ろに扱ってくれるのではないかと期待すると、少しほっとします。人々は荒れ野の方を振り向きます。自分たちが不満たらたら漏らしていた当の荒れ野を対象として見つめなければならなくなりました。だがそこに主の栄光が現れます。自分たちの言動を振り返らされます。
 
主はモーセに告げます。アロンを通じて民に語ったというようには書かれていません。が、「彼らに伝えるがよい」とあるからには、やがてアロンを通じてイスラエルの民にもたらされたことでしょう。夕暮れには肉を、朝にはパンを食べて満腹する。それで必ず主なる神を知ることになるだろう、と。
 
私たちはこの民の不甲斐なさを嗤うかもしれません。けれども私たちも思い起こします。ただ喜びの中で主にかつて出会ったでしょうか。むしろ自分の罪を思い知らされて、絶望感すら懐きながら、だがそこに救いの血染めの手を差し伸べるイエスがいて、立ち上がらされたのではなかったでしょうか。出エジプトの民をただ見下してはなりません。


Takapan
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