脱出を喜ぶ歌が待っている

チア・シード

出エジプト15:6-11   


四百年にわたり住み続けたエジプトから、イスラエルの民はついに出て行くことになりました。そうしてこそカナンの地にこの民族が生きるようになったのです。エルサレム神殿が約束の地に建つようになったのです。神の導きであり、そのためにモーセという人物が用いられました。そのモーセによる歌がこれだ、と聖書は記録しています。
 
主は救い。主をほめたたえる。エジプト軍は、葦の海に沈みます。イスラエルの民だけが、海の底を歩いて渡ることができるように、海の水を分かれさせる奇蹟が、神より起こされました。強い東風で、海の水は堰き止められ、水は両側で壁となりました。これを見てみて、エジプト軍は、実は自分たちのために有利に働いたとぬか喜びしていました。
 
これで追いつけるぞ。戦利品を得られることだろう。しかしこの思いこそが罠だったのです。私たちも教訓を与えられる思いがします。自分の利のために事が起こったという思い込みは、実はそうとう恐いものです。クリスチャンたちが自己本位になるとき、このようなことを考えがちだからです。自分の罪を顧みず、これは神の恵みだと見なすのです。
 
しかし神の息が吹きかけられたとき、すなわち神の霊が及ぶとき、その海がエジプト人を呑み込みました。自分の利を勝手に皮算用していた者に、神の業が滅亡の業として襲いかかったのです。これぞ神の業、世に随一の出来事です。主の右の手の力が敵を打ち砕いたのです。愚かな敵は、自分たちは真っ当であると、口先だけの空論に夢想していました。
 
集団で幻想を抱いていたのでは、そこから抜け出すことはできません。他方神に護られた側としても、少しばかりの忍耐は必要です。一定の労苦が伴うことになります。十の災いがあったあのいくらかの期間を思います。しばらくの間の交渉や期間が必要だった、ということでもあるでしょう。でも、そこから脱出できます。モーセの歌が待っています。


Takapan
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