エジプト軍と共に死んだ者

チア・シード

出エジプト15:6-11   


脱出したイスラエル民族を追いかけてきたエジプト軍は全滅し、海の藻屑と消えました。ここでモーセとイスラエルの人々が歌ったという歌が掲載されています。この長い歌の後に、ミリアムの歌が短く記録されていますが、どうやらこの短い歌が最古の歌ではないかと考えられています。素朴であるだけに元来の形が残ったのであろう、と。
 
モーセの歌は、整いすぎています。でも、だからと言って価値が劣るとは申しません。いずれにしてもずいぶんと古い文献なのです。主の右の手の力強さをモーセは称えています。今日はその一部を味わうことにします。敵を破ったその大いなる力を褒めたたえるのですが、よく見ると主の力は、怒り・水・海のイメージで描かれています。
 
海は深淵として敵を呑み込みます。イスラエルの民は奴隷状態のエジプトからモーセの導きにより脱出しました。どうしてモーセなのか、モーセに安易に従ったのは何故かという疑問は残りますが、ともかく脱出した以上、そしてそれをエジプト軍が追いかけてくる逼迫した情況がこの歌にはよく描かれています。
 
しかし、人間的に絶大な力を誇ったこの軍隊も、主の息ひとつで海に呑まれ沈んでしまいます。このような主に比すべき存在はほかにはないのだ、とモーセは歌います。かつて燃える柴からかけられた声と共にこの神に出会ったことが思い起こされます。この神を信じてよかった、モーセは今更乍らにそのように感じたのではないでしょうか。
 
確かに、迫られて信じざるを得なかったとはいえ、その力を見せつけられ、ここまで導かれてきたことは本当に大きかったと思います。賛美される方は他にはないと言いますが、その賛美をするのは誰でしょう。モーセです。イスラエルの人々です。そして今やその賛美の輪の中に、この私も加えられました。これを噛みしめたいものです。
 
わたしはその大いなる主の力を目撃したではありませんか。いつエジプト軍が滅びたでしょう。人それぞれに体験があるはずです。かつての自分、あるいはその自分を惑わしていた諸々の世界が、滅びたはずです。もう過去のものとなった、あの罪の世界は、キリストに出会った私たちにはもうありません。存在しないのです。
 
その世界の中の一部として、自分がありました。あの自己はもう葬られています。エジプト軍のように消えました。水の中に死にました。洗礼です。水に流され溺死したあの己れの姿に別れを告げ、主の右の手にすがる者として、私はいまここにいます。新しい、永遠の命を与えられ、ありえないような祝福の中に、もうすでにいるのです。


Takapan
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