イスラエルは神の歴史の内にある

チア・シード

出エジプト15:12-16   


葦の海を渡った60万人以上のイスラエル民族は、二つに分かれた海が元に戻ることで呑まれてゆくエジプト軍を見ました。大スペクタクルです。モーセは一躍英雄となりました。否、モーセからすれば、主こそがすべてです。主に向かって賛美します。主の右の手により敵は呑まれていったことを、高らかに歌います。
 
イスラエルの民は救われた。神の愛によって生きるようにされた。ここに、生と死との明確な対比があります。但し、モーセの歌にしては勇み足があります。どうしてこの時点で、ペリシテやエドム、モアブといったカナンの地の民族が登場するのでしょうか。どう考えても不自然です。この主の業を知って彼らが震え上がるとはどういうわけなのでしょう。
 
もちろん、出エジプト記の編集者あるいは執筆者の年代の問題だ、と言いのけてしまうのは簡単ですが、こんなにバレバレの仕掛けを平然とするのは何故か、一考の価値はあろうかと思います。イスラエルの歴史には、私たちの感覚でいう時間が軸となっていなかったのではないでしょうか。神の出来事の系列は、人間の時間軸に拠らないと思うのです。
 
イスラエル民族は、神の歴史に接していました。私たちの通例の時間概念に基づかない、神の時間を生きていたとしましょう。この記述を単に後の時代のものとするのは、人間の観点であり、人間の歴史観に基づく印象です。しかし、神の目においては、結局この海を渡ることが何であったのかを、別のところから人が見るように描いてよかったのです。
 
恐れとおののきがあって然るべきです。他民族は神が共にいるイスラエルのことを知って、石の如く沈黙するがいい。イスラエルの民は、カナンの地への道を通り過ぎて行きます。しかしそれはまた、人の歴史の中を、神の民として貫き通る歩みです。そして、キリストにある者は、その時間意識を受け継ぐ、新しいイスラエルであるのです。


Takapan
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