感情と理性と信仰

チア・シード

出エジプト14:5-14   


ファラオもファラオですが、イスラエルの民も同様です。彼らは出エジプトを果たして、「意気揚々と」進んでいました。原語の表現でこれは「高く上げられた主の手のうちに」と書かれていることが注釈にありました。こちらの訳の方が良くありませんか。主が共にいて、主の守りがありました。そこには安心感があるはずでした。
 
ところがエジプト軍が、ファラオの思い直しで追いかけてきます。どれだけ痛手を負ったか知れないファラオの意地のようにしか解釈できませんが、物語の中ではどうしても道化役のように見えてしまいます。記者はその場所を細かく示します。バアル・ツェフォンの手前ピ・ハヒロトの海辺であったなどと。海辺という情報は後で生きています。
 
思ってもみなかったエジプト軍の姿をイスラエルの人々は見ました。人々は恐れ、叫びました。主の手に守られている安心感はどこへ消えたのでしょう。人々はモーセに噛みつきます。エジプトに墓がないから荒野で死ぬようにさせたのか、なんということをおまえはしてくれたのだ。エジプトにいたほうがましだった。ああ、人の浅はかさよ。
 
まるで我が身を見るようです。違いますか。一瞬前の自分など、もう自分のアイデンティティから消え去ってしまっています。すべてその時次第、感情のままに何でも口にするばかり。ポリシーも何もありません。それに対してモーセはここで、人格の中の冷静な部分、理性的な一本の筋を通す心を代表しているかのように見えます。
 
恐れるな。主の救いを見よ。主の手が高く上げられて私たちを覆い守っているではないか。理性の上に信仰も加わっています。主が戦われる。もうあの敵を今後見ることはない。わめくな、騒ぐな。自分を失う感情の塊よ、静かにしていよ。私の中に信仰があれば、このように、揺らぐ私の心を抑えるために告げてくることでしょう。


Takapan
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