出エジプトを常に胸に刻んで

チア・シード

出エジプト13:3-16   


十度のファラオとの交渉の末、主はついにエジプトの初子を伐つという形で決定的な一手を放ち、イスラエルの民は男だけで六十万という人数の民を、無事に、しかも様々な金品を巻き上げてエジプトを脱出させることに成功しました。そこで主は、モーセとアロンに、最後にこの出来事を記念する過越祭の規定を教えました。
 
しかし、なにもこの時でなくてもよいでしょう。ただでさえパン種を用意する暇もないほどに慌ただしい脱出劇の最中です。後世祝う祭の規定をのんびり聞いている暇はありません。これは物語の内ででなく、後にこの時のスピリットとして認識されることが、このタイミングで載せられている、と理解したいと思います。
 
主がここまでモーセに語ってきたことを、モーセは適切にイスラエルの民衆に伝えなければなりません。それがこの箇所です。モーセが民に何と説明したか、が記されています。これは過越祭についてのコンパクトなまとめとして受け取ることもできるでしよう。いつかこの祭の規定を主がモーセに教えたよりも詳細に告げるのです。
 
この規定は心に刻み、いつでも口に上らせることができるようにしていなければなりません。これが民族のアイデンティティとなるからです。過越祭は、毎年の定めとして守ることが義務づけられる、神の民としての掟となります。やがて約束の地カナンに入ります。必ずその土地は与えます。そこで初子を主に献げることが、この時すでに規定されるのです。
 
もちろん人身御供のようなものでなく、小羊をその代わりに献げるということになります。ひとはこのように身代わりにその罪を背負ってもらった動物の犠牲があるからこそ生きるものとなるのです。どうして小羊なのか、残酷なようにも聞こえますが、羊は非常に一般的な動物だった背景もあろうかと思われます。
 
神の小羊と後に称されたのは、イエスでした。私こそ罪の者として殺されて然るべきだったのが、イエスが犠牲となり生かされました。この福音の重さをひしひしと感じます。これを子孫に伝えます。手と額に言葉を付け、しるしとして示せとまで命じます。私の手は、このことを表しているでしょうか。十字架を身に負うているでしょうか。


Takapan
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