信仰の歩みをリードする

チア・シード

出エジプト13:17-22   


モーセがイスラエルの民を率いて、エジプトから脱出するときのことです。強い民族のただ中を通るのは危険だと思われました。近道であっても、危険にまみれていれば、メンタルがやられます。エジプトに戻りたいと民が騒ぎ出すのを神が心配したという経緯がありました。そうでなくても、途中で食べ物や水で民はごねてきたのです。
 
理念のために労苦するよりは、不自由でも、生き慣れた環境をひとは好むものです。精神の自由よりは、隷属して何も考えず生きていられたら、どんなにいいか、と望ものです。ペリシテの脅威がここで強調されていますが、時代的にどうなのでしょう。歴史的に合致せず、先々のイスラエルを脅かせた時代から見て書かれている可能性は否定できません。
 
それはそれとしても聖書協会共同訳がいう、「神は考えた」という言葉が気になります。いったいどんな人間が、神の考えたことを知ることができるのでしょう。神と話したモーセだから分かるのだ、という理屈があるから、とすれば確かにそうです。でも、人間が書きうる範囲を超えているように思えてなりません。
 
民は、紆余曲折の度を続けることになります。モーセがヨセフの骨を携えていたのは、遺言に則ってのことでした。ひとの思いを大切にするのは、そのひとの信仰を重んじるということにもなります。神に関わることであるならば、その神を大切にすること、神との関係を最大限に尊重するということになるでしょう。それが、愛するということです。
 
長い旅が始まります。この直後、第一の危機が訪れるのですが、一行には主の護りがありました。昼は雲の柱、夜は火の柱という形で、神が民と共におられました。民から主は離れることがありませんでした。このとき主は民の「先」を歩んだといいます。神が民を導くという構図は、聖書の中で揺るぐことがありません。
 
人が神に先んじてリードしようとする愚かさに気づきましょう。但し、「昼も夜も歩めるよう」に導き、道を照らしたというのをまともに受け取ると、休みなく歩きづめだったみたいです。「昼でも夜でも、どんなときでも必要があれば」くらいに受け取ってよいでしょうか。私たちの人生の暗いときも明るいときも、神が道をつくっているのだ、と。


Takapan
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