戻らぬエジプトと戦わぬ道

チア・シード

出エジプト13:17-22 


エジプトという国家が現在もある以上、いつも非常に申し訳ない気持ちでおります。偏見が生まれないはずがありませんから。いくら過去の話と割り切っても、遠慮したくなります。一応、物語や象徴としていきます。ファラオはついに折れて、モーセたちイスラエルの民のエジプト脱出を認めました。初子が打たれたということは、エジプトの将来が消えるということでした。
 
モーセを先頭とする何十万もの民がエジプトを出ます。奴隷の身分から自由を得たのです。ここにクリスチャンの救いのひとつの姿を見ることも可能です。神は、もうエジプトに戻ってはならないと考えました。神の配慮です。強力な兵と武器をもつペリシテの街道を通るようには民を導かなかったのです。相手が太刀打ちできる者でないと知ると、エジプトがよかったと泣き言を言って舞い戻りかねないからです。若干の呟きはありましたが、概ねこの配慮は功を奏しました。救われる前の状態には戻りたくないものです。
 
民は迂回しました。遠い回り道でしたが、戦いを避けた道でした。キリストに従う私たちも、戦うことを避けて通るほうがよい場合があります。そしてたいていは、そうなのです。怖気づいたからではありません。主の導きです。たとえ荒野の遠回りであっても、戦わない道を主は選ぶということがあります。戦いを避けた迂回、それは、戦いに遭わなかったのですから、避けたという事実にすら気づきません。そのため、時にいい気になることもあります。
 
イスラエルの民は、隊伍を整えてエジプトを出ていったと記録されています。ここはフランシスコ会訳では「武器を携えて」としています。類例の少ない語なので他にもいろいろ訳語があるそうです。ただそれは軍的な意味であることには違いありません。戦うことを避けさせるのに、何らかの軍的な様相を帯びるのです。私たちも、象徴的に「戦う」ことに関する表現は使うのですから。
 
ヨセフの骨をモーセは忘れませんでした。もう四百年以上前の遺言とも言えましょう、ヨセフが葬ってほしいと願ったカナンの地に、いまモーセがその約束を果たそうと向かいます。ヨセフの祈りは、数百年を経てもなお聞かれることとなったのです。子孫とはありがたいものです。また、それに応える子孫は大したものです。祈りを諦めてはならないことを学びます。
 
記事は二度にわたり、昼は雲の柱・夜は火の柱と繰り返します。この柱を以て主は数多の民を導きます。主が、柱になったのではありません。目に見える何かが、私たちの前を進み導きます。先頭と記されていますが、私は後方をも守ってくださったのではないかと勝手に想像します。見えない神の手によって、何かこの世の見える現象を用いて、私たちの地上での旅の歩みは、導かれると共に、囲まれ、守られていま続いていることを信じ、強められたいと願います。


Takapan
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