とこしえに守るべし

チア・シード

出エジプト12:21-28   


モーセによる数々の奇蹟に動じなかったエジプト王が、やがてついに動かされてしまいます。エジプト中の初子が死ぬのです。エジプトの子どもたちに襲いかかる不幸を、軽くあしらうことはできないと思います。イエスの誕生の際にも、数多くの子どもたちが犠牲になっています。世の不条理が神の摂理の中で起こったことに、胸を痛めます。
 
この出来事は、過越と称せられます。後にイエスの十字架がこの祭りの時となりますが、今ここでは、民族の存続のために必死な場面です。羊を屠り、その血を家の入口に付けておけば、そこに災いをもたらさないように、神が過ぎ越して行くのだといいます。神が恰も取締官のように一軒ずつ見ていくというのは、ちょっと戯画的でもあります。
 
しかし、むしろそこに救いの象徴を見るというのが、私たちに促されている方向です。そのしるしがないと、滅ぼす者が家に入って打つのだそうです。滅ぼす者とは誰でしょう。神またはその使いでしょうか。ともかく、この儀式をずっと守り行え、というのが、この聖書箇所の主眼であると考えられます。とこしえに守れ、と言っています。
 
つまりこれは、後世の人々のために命じられているのです。「このことをとこしえに守らなければならない」からには、続く人々の掟であるイスラエルの名を引き継ぐ者たちが、守り行うわけです。また、「主の過越のいけにえ」は、民の救いを表しています。エジプトで主が救ったことを、決して忘れてはならないのです。
 
これを、身を以て改めて示したのが、新約の神であり、イエス・キリストでありました。与えられた地で、その救いの業を今に置く儀式を行え、というのです。これは、十字架と復活を覚える、いまの私たちの礼拝とぴったりと重なるように思えてなりません。復活節の礼拝を「とこしえ」に守るように、私たちに命じているように聞こえるのです。
 
では、世の終わりとなったら、それはどうなるのでしょう。私はたぶん同じだろうと考えます。新たな天の都エルサレムにおいて、聖徒は小羊イエスを称えます。いつまでもいつまでも鳴り止まない賛美の歌の中で、ハレルヤと主を称え続けるのです。そこには夜がありません。つまり時間がありません。正に「とこしえに」イエスを称えるのです。


Takapan
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