法を乗りこえる法

チア・シード

エステル8:3-6   


ハマンへの報復は成し遂げました。思った以上の出来となり、ハマンの処刑に加えて、その家財をも入手できました。けれども、自分はそれでよいとしても、肝腎の目的、ユダヤ人虐殺絶滅へのカウントダウンは始まっています。いわば時限爆弾がすでに仕掛けられていますので、それを止めなければなりません。アクションドラマによくある筋書きです。
 
エステルとモルデカイにはその使命が残されていました。アダルの月の十三日にユダヤ人を一人残らず根絶やしにし、財産も奪い取ってよいとする法が、すでに国内に布告されています。エステルは再び王に謁見を求めます。金の笏を王が差し出せば命はありますが、そうでなければ死罪となる振る舞いの故、前回は怖れました。今回は怖れませんでした。
 
なぜか。もう王が味方であることを知っていたからです。そこで大胆に願います。ユダヤ人絶滅の文書を撤回するように王が命じてください。しかし王は、それはできないと言います。一度王の名で出された法そのものを撤回することはできないというのです。それで、その法とは別に、あるいはその法を乗り越えるような新たな法を加えることを王は許可します。
 
王による法を安易に撤回するとなると、王の権威に疵がつくと考えられます。王の法に不信が伴うかもしれません。一度出された法を簡単に無効にすることにはしないのです。そこでエステルとモルデカイは一考の上、やがてユダヤ人たちが復讐を徹底的にしてよいという法を、王の指輪の印をつけて全国に送りつけ、ユダヤ人の危機を救うことになります。

ここで私たちには思い当たることがあるはずです。旧約の律法は、イエスのもたらした新たな福音によって撤回されたのではない、ということに気づかされるのではないでしょうか。旧約の神の律法もまた、神の言葉です。それをいとも簡単に否定することはできません。しかし、それだけでは人間は分裂し、一方の者が虐げられる社会をつくることになりました。
 
ハマンのもたらした法そのものを否定するのではなく、その実現をストップさせた彼らの知恵は、旧約の律法による裁きを否定するのでなくその実行をストップさせる、新たな福音をもたらす道があることを教えてくれます。もちろん神の律法が悪者ハマンが私怨と悪意であみだした法のような性質のものではありませんが、構造は類似して理解可能です。
 
旧約の律法は、イエスの十字架と復活とで、適用だけが止められるのです。神の言葉がすっかり変わってしまったわけではないということです。神の権威はあまりに偉大なものですから、王の指輪の印という程度でなく、イエスの血の犠牲を伴う、主自らが痛み苦しむものとして、私たちのもとに救いの道が備えられたことに、目を開かせて戴きましょう。
 
エステルが王の前に告げた言葉は、イエス・キリストの心と重なって聞こえてこないでしょうか。――特別の配慮を私にください。かつて一部の人が多くの人を苦難に追い込んだ律法を超える措置が実現するように計らってください。私はこの友たる人間たちに降りかかる不幸を見るに忍びず、人が滅びるのを見るに忍びないのです。


Takapan
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