誰のために祈るのか

チア・シード

エフェソ6:18-20   


祈ってください。信仰の友、助け手に向けて伝える。これ以上の信頼はありません。祈ってくださいと頼むそのこと自体が、友への信頼と、神への信仰を表しています。世にあるそれぞれの立場から、神の前に出る道を伝え、悪魔に対して立ち向かえるよう強くなれる備えをせよ、とここまで告げてきましたが、なお、強さの極意は祈りにあり、と言いたいようにも聞こえます。
 
だから私のために祈ってください。この筆者は、手紙の冒頭からパウロを名のっていますが、研究者はそれは怪しいと理解しています。福音を伝える務めの中で鎖につながれているといいますから、パウロの獄中からの書簡とされていますが、その時のパウロの心境に合わせて綴っているとも考えられます。確かに、祈ってください、と言いたかったことでありましょう。
 
しかし、ここで私たちは戸惑います。私たちは、聖書のことばを神のことばとして受け止め、その命令に従いたいと考えています。ですから、祈って下さいと言われれば、祈りたいと思います。それは誰のために祈ればよいのでしょうか。パウロのために、という設定です。しかし、私たちならずとも、この手紙が書かれた時、すでにパウロは亡くなっています。読者は誰のために祈るよう要請されているのでしょうか。もちろん、現代の私たちもそうです。
 
パウロのためでしょうか。パウロのどういうことについて祈ればよいのでしょう。記されているのは、福音を適切に語り、福音のミステリーを示せるように、です。しかし現代の私たちにとって、この要請を受けてパウロが語るように祈るということは、非現実的極まりないことに気づきます。しばしば、教会の牧師や世の伝道師のために祈ることなのだ、と解されているものですが、何も牢獄の中にいるのではありませんから、やはり状況に合いません。
 
「すべての聖なる者たちのために」祈ることも、求められています。これはこれでよいのです。目を覚まして根気よく祈りたいと思います。でも、「わたしのためにも」が確かに付随しているし、そのほうが多く、また繰り返し求められています。パウロのために祈れとされています。これをどう受け止めましょうか。
 
私は、パウロでよいと思っています。この手紙がパウロの手によらなくても、パウロでよい、と。いえ、これが聖書である以上は、究極的に神が語ることを想定してよいと思うのです。まさにこの書簡自体が、今の時代にも福音を伝えています。聖書という神のことばが、人々に語りかけています。福音の力を語り伝え、神を証言し、神の心を届けています。神からの呼びかけとしてのこの聖書のことばが、あなたの心に届くように、私は祈ります。キリストのために、キリストの御名を通して、祈ります。


Takapan
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