戦いの比喩しか

チア・シード

エフェソ6:10-20   


悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、悪しき日に抵抗してやり遂げ、立つことができるように、神の武具を取って身に着けよ。それは、祈りへと結集していきます。どうかこのパウロのために祈ってほしい。場面はだいたいこのような流れです。有名な武具による戦いの喩えが満載で、力強いフレーズが並んでいます。
 
信仰は戦いである。どうしても戦いをイメージしなくてはならないというのは、信仰についての一つの避けられない型であるのかもしれません。神の正義と悪魔の悪との戦いです。善と悪との凌ぎ合いは、様々な宗教が思い描き易い図式でした。キリスト教もまた、グノーシス主義などのそうした異質の思想と後に戦うことになりました。
 
宗教は常に悪と戦い、勝利することを宣言します。宗教は正義だという前提があるのです。もちろんキリスト教もそうです。黙示録のイメージは、終末の戦争という形をとります。敵を根絶して神の都が永遠の喜びをもたらすという筋道です。しかし、旧約聖書の初期、特にカナンの地に侵攻するヨシュア記は、現代的には大きな問題を含んでいます。
 
原住民を追い出し滅ぼす過程は、実に血生臭い戦いの連続です。それは神の命令により肯定されるとしていますが、ひとつの戦いで何万人という兵が簡単に死んでいきます。それが幾度も繰り返されるとなると、現代社会でも、社会も経済もあっという間に崩れてしまいます。人口比の異なる当時ではなおさらだったはずです。だから敵は滅んだと?
 
社会保障も不十分だったことでしょう。イスラエルの側が勝ったとしても、犠牲が出ないはずはなく、統治が保ちゆかないのではないでしょうか。見た目では、あまりにも軽々しく戦い、軽々しく人を失い、社会を破壊しています。そうして、勝った側の神が生き残り、負けた側の神が消えます。例外が、このイスラエルという不思議な宗教です。
 
負けたのは神ではない、自分たち人間の不信仰の故なのだ。このような信仰が、この神への信仰を消滅させず、従って神も死なずに遺りました。神のせいにはしない信仰があったのです。これを受け継ぐキリスト教は、依然として戦いの比喩を保持し、武具による戦いを奨励しています。戦争を肯定してきた歴史を、改めて顧みる必要はないでしょうか。


Takapan
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