教会の内にもある戦い

チア・シード

エフェソ6:10-20   


どうしても、信仰の武具の姿を想像してしまうし、そこに目が向かいます。否、そこから目が離れないと言った方が適切かもしれません。だがここで筆者が最も気にしているのは、教会の安定ではないでしょうか。牧会者としては、殆どただの前提にしておきたいもの。安定した教会があって当たり前で、そこから皆で力強く宣教していく、というような。
 
波風が立つことなく、堅い土台の上に建てられており、大地が揺れようとびくともしない組織として教会が揺るがぬ存在となっていてほしいと思うはずです。それがあって初めて愛の交わりも慈善行為も可能となるからです。牧師や役員、やはり特に牧師はそう思うでしょう。教会が崩壊すれば、自分の収入もなくなってしまいますし。
 
一方、愛の運動を現実に為していくことによってこそ、教会というものが成り立つのだ、と見ることもできるでしょう。何かしら問題もありましょうし、対立が起こるかもしれません。でも、それを乗り越えていくこと自体がまた、教会の求める愛の形成であろうとする考え方もありえます。単純な方向性によらず、ダイナミックに成長したいものです。
 
それにしても、教会組織を運営するなどと、なんとも嫌な表現もよく聞きます。人間の臭いがぷんぷんします。教会に行っても、人間の打算や目論見しか感じられないことがあります。何故か。神を見ていないからです。いつの間にか人間の計算の下に共同体社会が動いているだけだからです。礼拝に出ても、人間しか見えないとしたら、悲しいものです。
 
そうではなく、「主にあって」という聖書によくある言葉に注目しましょう。パウロは、純粋に人間として見たときにどうかと思われるふしもありますが、主にあって生きていたのは間違いありません。主の大いなる力の中にある人でした。悪魔は外から来るかもしれませんが、超越した神からの力は、私たちの内に働きます。
 
私たちは心の内に、魂の壁を弁えます。それはここに挙げられたような武具を装着するべきです。悪魔を断じて入れることのできない聖所がその中にあります。神が私たちの内に在すからです。そのためには、不夜城の如く、絶えることのない祈りがなされます。自分の内にそれがあることを、パウロという人は知っていたに違いありません。
 
どうかこの状態が続くように祈ってほしい。そんな願いは、弱さ故というよりも、この鉄壁の力への信頼のためだと思います。福音がそこから力を出して働きます。今は悪しき時代ですし、悪しき日はまだこれからやってくることでしょう。人間に対する悪魔の戦いばかりでなく、教会の中に漂う人間臭さとの戦いも覚悟の上で、祈り続けます。


Takapan
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