抽象的な戦いから祈りへ

チア・シード

エフェソ6:10-20   


具体的な生き方の指針を、夫婦親子に主従それぞれの立場ごとに伝えた後に、いよいよ手紙はまとめにかかります。いずれ私たちの行く道には戦いが控えていることは明らかだと考えています。どんな備えが必要でしょうか。何か敵が存在することが意識されているのは確かですが、ただそれが特定の敵であるようには、どうしても見えません。
 
しかしだからこそ、私たちがこれを読んでも、悪魔と戦うとはどういうことか、自由に想像もできるし、如何様にも適用可能となる可能性をもっているといえます。抽象的な武装の喩えは、抽象的であるが故に、どんな場合でもあてはめて考えやすいということです。たとえば教会としてどう立ち振る舞い、どう戦うかを説くのもよいでしょう。
 
必ずしも個人的な信仰での戦いということに限定しなくて構いません。漠然とした空くなる敵、人間とその世を支配しようと目指している悪の霊があるといいます。しかもそれは天にいある、と。これは由々しきことで、将来は神学的な議論にすらなるであろう、などと書いた当人が考えるはずもありません。
 
美しい表現が続きます。具体性をもたずに飾られた言葉です。しかし戦争の喩えです。兵士の姿こそが信仰者の姿だという比喩が、いまとなっては平和の理念とは程遠い、結局戦争を美化したり戦争を必要とする思想の中での教えであって、それを真に受けた教会が、当然のことのように戦争を繰り返してきたという批判があることも弁えておくべきでしょう。
 
戦争を通してこそ平和が実現される、そのような考え方から人類は長らく離れることができませんでした。必要悪としての戦争が、その都度正当化されてきました。この指摘に保身を計ろうとせず、沈思すべきです。そのせいではありませんが、いまここでこの美しい喩えの一つひとつを検討するつもりはありません。
 
ただ、霊の剣というイメージを持ちだして、それを神の言葉として理解している終わりのあたりを見ておきましょう。神の言葉の支配する領域でこそ、祈りがなされ、神と人とが通じ合う道が拓かれます。いつでもどこでもその祈りにより神とコンタクトをもつことが必要であり、そのためにも目を覚ましていよという忠告がここにもあります。
 
そもそも眠りこけていては戦えるはずがありません。神とのつながりによって支えられるのはもちろんのこと、敵へ向けてもこの神の言葉が武器となります。キリストにつく味方の軍のメンバーを助けることもできます。こうして、福音のミステリーが、いざという時にこの口から出るように願い求めようではありませんか。
 
手紙の筆者は、自分がそのようであるように、と神に願い、祈ってくれと頼みます。牢の中のパウロという設定ですが、私たちへの束縛はこのパウロの姿に象徴されるようにいつでも及んでいるものと理解できます。それはいまの時代も同じです。福音を語ることに自由であるように、と互いに祈り合う者でありたいものです。


Takapan
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