神の武具

チア・シード

エフェソ6:10-20   


神の武具を身に着けよ。戦いを前提としての表現だけに、どうかすると、キリスト教の中に戦争肯定の思想があるのではないか、と言われることがあります。時代的な通例の発想は、現代的な振り分けとはまた違う意図があるものと見てはいけないでしょうか。この箇所での忠告は、まさに神の武具を揃えることに尽きます。私たちは、やはり何者かと戦わなければならないというのです。
 
武具と訳されている語には、攻防全般にわたる完全装備の意味がこめられているように見えます。最近ではアーマーと言ったほうが通りがよさそうです。申し分のないアーマーセットです。しかしここに書かれてあることをよく見ると、なんだか防具としての機能ばかり述べられているような気がします。
 
目的は、抵抗して立ち続けることです。帯は締めるだけ、胸当ては防御にほかならず、履物は具えても武器ではありません。信仰が盾だといいますが、やはり防具です。悪者の放つ火の矢を止めるのだそうです。兜は守るあめのもので、頭という急所を守るので、救いに喩えられています。
 
それから最後にようやく、剣が登場します。但し、これで相手に斬り込むような書き方はしていないようです。その次の叙述を見ると、剣は、祈るため、また福音を適切に語るためのものとなっています。パウロは、語ることのために鎖に繋がれているとされています。身動きが取れない状態での戦いです。霊の剣というのも、決して攻撃型のようには思えません。
 
私たちの戦いは、どうでしょうか。防御することに追われているかもしれません。苦しい思いばかり懐いて、攻撃に晒され続け、反撃すらできないという人もありましょう。ましてローマ帝国とユダヤ人たちの宗教的圧力の中で、エフェソ書がアドバイスできたのは、やはりせいぜい防御であったとしてよいのではないでしょうか。
 
そうは言っても、福音の言葉は、単に身を守るためだけの役割しか担っていないわけではありません。血と肉で戦うのではないからであり、見えない相手の支配に対する戦いにそれは有効です。神の言葉は人を倒すためのものではありません。人を過去の神無き自己中心のあり方から救い出すものです。
 
この戦いの中で抜かれた霊の剣は、実は内なる自分のためのものでもありました。ただの防御ではなかったのです。自分は生まれ変わった。本当か。そんな疑いすら起こさせるものが働いてくる。敵は本能寺にあり。我が内に、戦うべき敵が及びうるのです。そしてこれらの完全装備は、神由来のものばかりです。安心して、神から具えられるものを受けていたいと思います。


Takapan
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