新しい人生を始める人へのエール

チア・シード

エフェソ4:30-32   


古い上着を脱ぎ去って、新しい服を着るように、これまでの生き方や装いを捨てて、新しい人生を始める。ひとは、そんな自分になりたいと時折願い、憧れます。今までと同じでよいと考えない場合があるわけです。エフェソ書の筆者は、異邦人たちと同じ歩みではいけないと言っています。すると、ユダヤ人たちにこの手紙は送られたのでしょうか。あるいはユダヤ人に課せられたあの律法が指定しているような生き方に立ち帰れ、と言いたいのでしょうか。
 
命令は、基本的に、それが実行できていないところに下されるものです。教会には、盗みをしていた者がいたのです。これは実は現代でも、そういう人の出入りはあります。悪い言葉を口にする者もいたのですし、無慈悲で怒りやすい者もいたのです。そうして、争いが絶えなかったのです。これは耳の痛い話ではないでしょうか。
 
神の聖霊を悲しませることなかれ。コロサイ書は聖霊について触れませんが、それの焼き直しとしてのエフェソ書では、聖霊のことが三度触れられます。聖という言葉は、概ね信徒たちのことを指すために用いられており、世から分けられた存在だということを示します。他方、神についてそれが霊であるという考え方を強調する様子はありません。
 
表に出すのは、キリストに従うようにという、生活上のアドバイスです。これはエフェソ書が、教会のとしての一致を現しているためでもありましょう。その点ブレがあってはなりません。キリストに結ばれる花嫁としての教会でありたいがためにまた、妻と夫との結合をも描いていたのでしょう。
 
教会の内に、汚れたことがまかり通ってはならないし、不和が日常的であってはなりません。ここは比較的具体的な事例が記されていると言えますが、コロサイ書を下敷きにしているという背景を考えると、どこまで現実的であるのか分かりません。キリストにあって神は、私たちを赦して下さいました。審きの日にも赦してもらえます。
 
その保証は、聖霊の証印があるかどうかという点にあるといいます。私たちには、札が貼り付けられているのです。この者は無罪である、という札が。私たちは言葉においても行いにおいても、その恵みの下に、恵みに相応しく生きることができるという、その可能性の中に置かれていることを確信して歩みたいと願います。さあここから行こうという人には、思い切りエールを贈りたいと思います。


Takapan
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