異邦人の悪口

チア・シード

エフェソ4:17-24   


異邦人を蹴散らしているような文面を見ると、少し引いてしまいそうになります。これと比較して、あなたがたは、と手紙の相手を持ち上げるわけですが、引き合いに出された方の立場としては、迷惑で不愉快な話です。エフェソ書が下敷きにしているコロサイ書には、そういった態度は見られません。
 
もちろん、エフェソ書も全体として見れば、異邦人へ福音を伝えるものですが、こき下ろすような言い方をしているとは言えません。エフェソ書の筆者が、ここでひとつエキサイトしているように見受けられるというだけです。キリストの体となり一つとなって生活していく皆さんが、反面教師とすべきあり方はどんなふうか、あぶり出しているようなものです。
 
欲望のままに生きることから歯止めが利かないし、知性も何もない者だと扱われているわけで、キリストを知るということはそれとは違うのだよ、と教えようとしているように見えます。キリストの内にこそ真理を見出し、それに従うべきなのです。以前そうした生き方をしていたことを思い起こし、そんな人間の皮は脱ぎ捨ててしまえと命じています。
 
そして新たな人を着るのです。励ましています。生きているのはもはや私ではないとか、かつての自分に死ぬのだといった強い意志はここには感じられません。情欲に惑わされ、堕落しているのが異邦人である、というのも強すぎる主張だと思いますが、これによって励まされる教会内のメンバーもいたのでしょう。
 
今はどうでしょうか。私たちは広い視野をもつに至りました。単純に自分の側から事態を見るのではなくなりました。自らの感情だけに支配されるようなことはないぞ、と言いたいところですが、今日も新聞を開くと、大人の顔をした偉い人が、実に大人げないことを言い放っているのに出くわすことになります。
 
新約聖書の書かれた時代とは異なり、今では、この異邦人とかあなたがたとかいう言葉が指す対象が、ずいぶん違ってきているように思われてなりません。自分はクリスチャンです、と口にすることは、かつては命を懸けた信仰告白でありましたが、今ではそれを免罪符にして喜んだり、あまつさえ他人を騙したりする始末です。やはり悪口と理解しましょうか。


Takapan
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