もはや子どもではなくなって
チア・シード
エフェソ4:14-15
幼子のようにならなければ神の国に入れないということと、いつまでも子どもじみた考え方や行いのままであってはならないということとは、一寸聞くと相容れないように感じる。「子ども」という概念が、私たち現代人が考えるものとはきっと違うわけで、それはつい百年前でも異なるほどのものですから、仕方がありません。
「私たちはもはや子どもではなくな」るべきなのです。大人になるということは、ここでは指している内容が決まっています。「人の悪だくみや、だまし惑わす策略によるどのような教えの風にも弄ばれたり、振り回されたりすること」がない、ということなのです。エフェソ書の記者は、教会組織を重んじ、その権威を打ち立てたいと考えています。
逆に言うと、そのために教会の害になるものを退けたいのです。あったのです。悪だくみや、騙す策略が、教会を襲っていたのです。異端の教えについては、現代でも、排除するのに難しいことがあります。人が本気で信じているものについては、それは間違っている、と指摘しても、相手も同じことをこちらへ突きつけてくるからです。
けれども今なら、聖書という基準があります。何らかの意味で標準となるものがあると、少しは議論が成立するフィールドが造られることになるでしょう。しかしエフェソ書当時には、基準となるべきものは全くありません。イエスについての証言だけですが、かの風土では他人の名を騙って記述することすら、悪いことではありません。
このエフェソ書自身、その一つなのです。正統信仰を主張するのは、事実不可能です。だから、原理ではなく結果によって見分けることが有効でした。「愛をもって真理を語り、頭であるキリストへとあらゆる点で成長していく」ことにより、キリストの弟子であることを示そうではありませんか。今の私たちはただ恥ずかしくなるばかりですけれども。