一つになることの危険性

チア・シード

エフェソ4:1-13   


一つである。この強調は、一つではない現状の危機感がもたらしていると考えられます。すでに2章で、異邦人であった者とユダヤの民の救いが一つとなり、隔てられた二つのものが一つとなることを手紙は告げていました。キリストという土台の上に、一つの建物となるのだ、と。異邦人であるという点がどうしても気にかかっている様子が窺えます。
 
パウロにより異邦人のもとに救いがもたらされました。これを強調する中で、やはり中心にあるべきはキリストです。キリストによってこそ、ユダヤ人も異邦人も皆つながっていきます。この後夫婦を話題にすることでキリストと教会の結びつきも挙げてきますから、まずはどうにも一致しないことがある中で、本当は一つなのだと避けんでいるようにも見えます。
 
場合によっては、同じキリスト教を宣言しながら認め合えず、相容れないグループとの関係についても、本当は一つなのだと言うべきなのかもしれません。するとただの奉仕的役割のみならず、教会の中での一致が考えられていることになります。グループ毎の役割があり、しかも一つの教えの下に揺るぎなくつながっていることが求められています。
 
そのとき、壁というものがあるなら、この世と諸教会との間に聳えることになります。世と一線を画し、世と交わることなしに、キリストの教会がすべて一つにまとめられていく理想を掲げるのです。エフェソの教会への送られたこのメッセージを否むつもりはありませんが、果たして教会は本当に一つにまとめられていくべきなのでしょうか。
 
置かれた時代の中で、別の原則が重要となることはないでしょうか。ヨーロッパ史において、教会が一つとなり君臨し、世を牛耳ってしまっていた時代に、この「教会は一つ」を振りかざすとき、非常に危険な方向へ走っていくことになりはしないでしょうか。教会をリードする魂が、常に聖書に適っているとは限らない可能性を考慮する必要があると思うのです。
 
教会は正しいのだ。そのように教会自らが宣言する。自己義認する。するとそれは恐ろしい力となって、一つとなってゆくように強要し始めます。正義に従うのが善であり、自分は善である、という論理を立てて。無条件で、一つであることが善いとは限りません。もちろん、すべてバラバラがよいという極論に走るのもまた危険なのですが。


Takapan
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