教会の祈り

チア・シード

エフェソ3:14-19   


パウロの祈りとして聖書に置かれ、教会で手本とされてきた祈りだと思われます。こう祈れ、という主の祈りが福音書で示されていましたが、それは私と神との間の祈りでした。恐らく福音書より後に補われるように書かれたこの書簡では、私というよりは、私たちの祈りです。教会の前に立つ代表者が、会衆を前にして祝福する祈りのようでもあります。
 
フランシスコ会訳の訳し方が分かりやすくためになりました。「天と地にあるすべての「家族」という呼び名は、この「父」に由来しています」と挟み込むようにして訳出しているのでした。クリスチャンはよく「神の家族」と教会共同体のことを言いますが、それは神を父と呼ぶのだからそうなのだ、と説明しているのです。
 
岩波訳はこの家族を「種族」とし、生物への命名のことであると解説しています。理解が異なるわけですが、「父」と「家族(種族)」のギリシア語は少し似ており、洒落のような言葉遊びであるという指摘は確かにそうでしょう。私は「家族」として読んでみることにしました。
 
新共同訳では「愛に」が二度繰り返されていますが、原語では一度きりで、「愛の内に、根差しかつ基礎づけられる」のように書かれてあります。一つの愛の上にこの家族、つまり可視不可視はともかくとして教会が立つのだということを明らかにしています。そして兄弟と言わないのがむしろ不思議ではあるのですが、聖なる者としての仲間たちと共に、キリストの愛を体験して神の豊かさを受けるように、と祈っています。
 
この愛の力は、上からのものであることが強調されています。もちろん、すべての愛は人間の外からくるわけで、人間の内部から愛が生まれることを教義として出すことはキリスト教はしません。キリストが私の内に、いえここではキリストが教会の内に住んでくださる、ということから、そのように言われるのです。
 
個人的に捉えれば、キリストの内住のことを指し得ますが、21節にははっきりとエクレシアの語が見えますし、さらに次章では、キリストの体なる教会が一つとなることを詳しく説いていくようになります。また、新生の恵みを述べた後、再びキリストの花嫁たる教会についての有名なフレーズが続くわけで、個人のことを言おうとしている件ではないと判断します。
 
私たちはここに、教会というものを強く意識した筆者の心を読まないわけにはゆきません。こうしたことから、この祈りはやはり公祷であったと理解したいもの。今の私たちも、同じ「教会」を掲げ、一つの信仰を貫いていると信じているわけですから、この祈りをもっと大切に懐いて献げたいものだと思います。


Takapan
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