恵みに救われた

チア・シード

エフェソ2:1-10   


恵みに救われている。信仰によって。日本語として言うなら、信仰を通じて恵みに救われている、というところでしょうか。続けて、「あなたがた自身からではない」「業、行いからではない」と並んでいます。神のギフトであって、誰も誇らぬよう、と但し書きのような付け加えもあります。どこか抽象的で、意味が分かりづらいように感じます。
 
しかしここで、自分のかつての姿を考えると、俄然生々しく伝わってくるものを感じます。自分は神の前に死んでいたではないか。生きているかのようで、何の目的も確かさもなく、自分勝手に考えて己れを中核として世界像を決めつけ、ひとをひととも思わず支配しているつもりでいたのではなかったか。それが、今ならば分かる。今だから、分かる。
 
生まれながらの怒りの子、それは私自身のことです。誰かのせいでそうなったのでもありません。一体、生きているのは生物的にはそうかもしれませんが、魂は荒み、命がありませんでした。なんとか生かされているのは神の憐れみから、いつか生まれ変わると信頼されていたからなのでした。でも、いまは果たして生まれ変わっているのでしょうか。
 
自分に問い直してみなくてはなりません。キリスト・イエスにあって、共に復活させられた、と言い切れるものでしょうか。この「共に」は「復活する」とつながって一語で表現されています。こうした言い方が教会で用いられていたのは、信仰にまつわる事柄が用語化していた可能性を想像させます。しばしば言及された問いかけだったのだ、と。
 
恵みに救われたのだよ。「恵み」には前置詞は付いていません。与格です。そのため様々な含みをもつようにぼかされています。だから少しばかり自由に、その人なりに捉えて理解してよいのではないかと思います。いま一人ひとりの人生に、神は豊かに働きます。それぞれにおいて神の力が、ひとつの形をとって現れてきます。
 
おまえは神の作品なのだよ、と呼ばれるのは少しばかり気恥ずかしいものです。でも、そう呼んだ神のほうは恥ずかしさを懐くこともなく、現にこうして私を生かしてくれています。キリスト・イエスにあって造ったからです。キリストが、私のすべての恥を覆ってくださったからです。背負ってくださったからです。これが、まさに恵みなのです。


Takapan
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