一つになることへの警告と理想

チア・シード

エフェソ2:18-22   


教会はキリストの弟子たちの集まりであるという理念のもとに、教会はひとつにまとまるべきである。そう考えるのは、いつの時代でも変わらぬ願いでありましょう。キリストを信じると告白する者は、ひとつとなるべきだ、そういう信念はあってよいし、掲げる理想としては決して間違っていないと言えましょう。
 
異邦人とユダヤ文化にある人との間に結合はあるだろうか。この手紙はそれをひとつには目指しているように見えます。使徒言行録の教会でも、これらのグループの対立が描かれていて、問題を解決する営みが記されていました。果たしてパウロは、どちらかというと異邦人が救われるようにと働き、ユダヤ人ののことは心の内で救われるようにと願っていました。
 
でも、やはりそれらは一致すべきです。エフェソの教会がそういう状態を緊急に必要としていたのかもしれません。かつてユダヤ人は、イスラエルの民としてエジプトではよそ者であり、寄留者の扱いでしたから、また逆にユダヤ人の中にいる外国人にも親切にせよという律法に基づき、いわゆる弱者を守る思いも有していました。
 
キリストという基礎の上に土台があり、それは使徒や預言者という形で目に見えるように支えられていきます。こうしてできた建物は、神の宿る神殿であり、教会は真実、神の住むところとなるのだと考えられていました。そしてそこにいる私たちは神の家族であり、決してばらばらであってよいものではなく、一つであるべきだ、と考えられていたのです。
 
しかし安易にイメージすると、私たちの腹が先立ってしまいます。あくまでも待ち、外から与えられる声に従い、幻を見せてもらいたい、そんなふうに思うこともあるでしょう。どうしてもキリスト教界の指導者たちは、そして一人ひとりが発言しやすくなったこのSNSの時代にいる私たちは、ひょいひょいと自分本位の理想を掲げてしまう傾向にあります。
 
思いつきの理想を決定打のように主張し、それに皆従うべきだと豪語し、反しているように見える人を徹底的に糾弾する。そこから対立が生まれ、非難と応酬が始まり、分離列して信徒並びに教会が始まります。教会は一つになるべきという理想によって対立し、背反していくというお笑いのようなことを地でやっているような気がします。
 
よく見るとこのテキストでは、対立する者たちが一つの霊にあって父なる神に近づくこと、その私たちの土台はキリストにほかならないことが記されています。キリストにおいてこそ、キリストの弟子たる者たちの集合体である教会は、共に成長し建てられるわけです。主役を忘れた愚かな功名心に気づかないと、理想すら争いの原因になることを弁えたいものです。


Takapan
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