寄留者でなく

チア・シード

エフェソ2:11-22   


あなたがたはもはや異邦人ではない。教会共同体のメンバーに向けてメッセージを送ります。つまりは生まれは異邦人なのですが、ただの異邦人ではないということです。いまは教会の仲間、メンバーです。キリストの群れのひとりに加わり、外国の者とは扱われません。さらに、寄留者でもないと言っています。
 
この「寄留者」という言葉は、旧約聖書、特に律法のモーセ五書においておなじみの語です。かつてエジプトで寄留の民であったイスラエル人が、今度はイスラエルに寄留する人々を大切にしなさい、というのです。では新約聖書ではどうかと言うと、これが不思議なことに、たった一度しか出てこない。このエフェソ書の箇所だけなのです。
 
新約の記者にとり、また教会組織を形成する中では、寄留者を重んじるという、旧約の、そして中東のもてなし文化は全く触れられていないのです。ここでの寄留者は、異質なもの、仲間ではない者としての例に過ぎません。同胞意識もないし、福祉的観点もありません。ただイエス・キリストの信仰において結ばれれば、寄留者でもなんでもなくなるのでしょうか。
 
遠かった者が、いまや近い存在となっている。イザヤ57:19で、平和をどこであれ宣言するということとつながっている考え方です。これを実現したのが、キリストにほかなりません。キリストのこのはたらきを、平和と呼んでいるように見えます。イザヤ書はまさに、そのような平和をもたらす福音として想起すべき預言書でありました。
 
神殿の幕が裂けたあの時、隔ての壁は崩されました。ベルリンの壁の崩壊を私たちは歴史の中で目撃しました。神と人との間の壁も、キリストの十字架で取り払われました。私たちは神とつながる道を与えられたのです。平和を実現する者は神の子と呼ばれる、そのように福音書でイエスが語っています。
 
厳密な意味で、それはキリストただひとりでの出来事でした。十字架でなければそれは不可能だった、それほど神と人との間の溝は深く、壁は厚く高かったのです。酷い犠牲が払われなければそれはありえなかった出来事なのでした。これが平和の福音であり、ただひとりの方の血だらけの成果なのでした。
 
キリストという要石の上に建て上げていく教会共同体に、確かに属する一人としての私たちの内に、神がともにいてくださいます。この力強いメッセージを、現代の教会が忘れかけていないかどうか、気がかりです。もはや寄留者でない私たちは、神の国に属しています。依然として、この世では寄留者としての旅の歩みを続けつつ、神の国の大使館職員として、平和を知らせるのです。


Takapan
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