神ならぬ神のいる場所へ

チア・シード

エフェソ2:1-7   


かつては神ならぬ神に従っていた。聖書協会共同訳が独自に訳しだした言葉だと思います。アイオーンという、この時代を表す言葉に関して、その意味を伝えてくれていると思います。神でないものを神としていることは、当人には分からないのです。自分が神としている対象について、他の判断者が、それは神でないと指摘するばかりです。
 
この状態を筆者は、罪の中にある、と言います。実は死んでいる、とまで言います。死という概念が、生物学的な意味でなく、霊的な角度から把握されている様子が目に浮かびます。どうしてそんなことになるのでしょうか。悪しき霊に従っていたからです。これを傍観してはいけません。私たちもかつて、その一人であったのです。
 
肉の思いは欲望的なものでもありましょうが、それと共に自分の判断を正しいとする原理的な働きをもたらしていることにも気をつけなければなりません。しかし、です。私たちを愛した神は、その死んでいた私たちを、キリストと共に生かしてくれました。この場合、私たちというのはキリスト教会のメンバーであるはずですが、ただそれだけではありません。
 
この私たちは、依然として不従順なグループに対抗して立っているのも事実です。自分がどこから救い出されたかという点から目を離してはいけません。こうして光の子とされ、その光を世に示していくのだという自覚が必要です。救いは自分の手柄ではありません。自分の力で救われたのではないことしを、思い知る者であり続けなければなりません。
 
誇る自分というものは存在しない、存在してはならないのです。神の作品としての自らを覚ることは、自分がどのように生きていくものであるかを自覚させ、慢心から守ってくれることでしょう。しかし教会の中で互いにこうやってよかったねと心を慰め合うことで終わってしまう、ただそれだけでよいのでしょうか。もちろんそれも必要なことですが。
 
教会の外にいる人と、教会は対立するしかないのでしょうか。あの迫害の時代、耐えに耐えて信仰を守っていた時代の人々と同じ立場に、私たちがいるわけではありませんから、聖書の勧告も、同じように受け取ることは難しくなります。教会内の秩序ばかり考えずに、空中に勢力をもつ者の支配下にある世間をも、教会化することを考えて祈りたいと思います。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります