三つ拠りの糸

チア・シード

コヘレト4:9-12   


結婚式に告げられることの多い聖書箇所です。私もそうでした。そして、結婚前からも、これを意識していました。ふたりというのが男女である必然性はないのかもしれませんが、助け手として互いに存在している男女の関係の中で捉えていきたいと思います。人が「ふたり」となるのは、男女であることが最も多いケースだとして始めたいわけです。  
しかしまた「友」という語もありますから、同性であるとして読む道もあってよいはずです。しかしこれはコンパニオンという意味であるとすると、男女であるときにパートナーという感覚で読むこともありうるとすべきです。そこで、ここでは男女の話として進めていくことをお許し下さい。
 
人は、ひとりであったら攻めにも耐えられないが、ふたりなら対決することができます。ふたりして温かくなることもできます。こうした話の流れは、まだ理解しやすいと思われます。しかし最後に突然、三つ拠りの糸は切れにくいと出てくるので私たちは戸惑います。ふたりなのに三つ拠りであるとはこれいかに。だからまた、結婚式で取り上げられるわけですね。
 
「たやすくは切れない紐」として訳してある聖書があります。新改訳は「簡単には切れない」となっています。新共同訳の「切れにくい」は切れると言えば切れるんだが、というニュアンスを感じてしまいますが、原文はもちろん「切れない」です。切れない絆がそこにあるのです。人の絆ならば切れない保証は確かにないのですが、「切れない」という力強さが原文にも表されています。
 
「牧師の書斎」というウェブサイトに、ここについての深い説明がありましたのでお借りします。ヘブル語はアルファベットで仮の表記をします。男は「SYA」(右から読む)と書き、女は「HSA」とします。2文字が共通ですが、それぞれにしかない文字をつなぐと「YH」となります。これは「YHWH」なる神の名の短い形そのものです。男女がひとつにつながることで、そこに主が現れます。二人が助け合うならば主がそこにおられるのだ、と。
 
他方、それぞれにある主を表す「YH」の文字を外した残り2文字からは「SA」ができますが、これは火を意味する語です。男と女がそれぞれに主を失ってしまうと、焼き尽くす火だけがどちらにも残るという仕組みです。それは裁きの火です。主なしでは人は裁き合うばかりになってしまうのかもしれません。
 
結婚には労苦が伴います。倒れそうになることもあるし、寒い中に眠れない夜を過ごすこともあるでしょう。攻撃を受け耐えなければならないこともあるはずです。けれども互いの中に隠れている主がひとつとして現れるように、二人がひとつになっていると、その供にある主が「良い」(トーヴ)ように導いてくれます。三人目の主が、結びの帯となり、愛をもたらしてくださるのです。


Takapan
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