時と音楽

チア・シード

コヘレト3:1-15   


「がある」の語は原文にはありません。しかも「時」の語も二種類ありますが、殆どは同じ「時」です。ただ「時」が冷たく並ぶばかりとなっています。暗闇ばかりが流れるような時間の中で、特定の「時」を思います。あの時、もしもああすれば、と別の人生の物語が頭を過ぎります。しかし、それは人の目に見える印象であるにすぎません。
 
音楽は、時の中で流れる芸術です。いえ、芸術と呼ばなくてもよいでしょう。ある音を拾うには、曲の中の一つの点を待って再び前の部分から感じとるようにしなければなりません。時間の中で動く楽譜の中の、特定の箇所があってこそ、それ、と示すことができる音です。ここに挙げられたのは、いずれも特別なカイロス的な時でしょう。
 
人生を生きる中で経験する人間にとっては、突如発生するチャンスであり、遭遇して驚くべき的、すぐさま消えていくがその存在は何かしら決定的な力をもつような時というものを教えてくれています。それでも、それは神の造った楽譜からすれば、すでに定められていたものであると考えられます。カルヴァンの予定説とはこういうものなのかしら。
 
人の労苦は、この中で何であるのでしょうか。無駄なふうに思える人がいるかもしれませんが、私たちはその譜面を奏でるアーチストとして、神の世界の舞台に立たされていることを思いましょう。誰も、楽譜に完全に忠実に奏でるアーチストなどいません。自由に自分を表現できます。私は私であってよく、私の演奏をしてよいのです。
 
譜面だけでは生まれない現実の音を奏でるということのほかに、譜面の中だけでは生まれない感動なり感情なりを生み出すことができるはずです。神は時の中で姿を表すような音を期待して、楽譜を備えてくれました。その曲は永遠のシンフォニーです。私たちは良い音楽を聴くとき、こうした事情を十分感じとっているのではないでしょうか。
 
神のシンフォニーを最後までこの地上で聴くことは、私たちにはできそうにありません。でも、自分に与えられたパートを奏でることは許されていると思います。それに喜びを覚えます。それがアーチストです。時にアドリブがあるかどうかは別として、演奏には「ゆらぎ」なるものがあり、機械的な楽譜の指示通りではないはずです。
 
聖書の言葉を文字通り行うことがキリスト者の使命なのではありません。その人なりに聖書の言葉を生きて、その言葉を自分なりに現実にしていきましょう。神は全パートを把握しています。だから自分の持ち分を果たすべくステージに立って演奏しましょう。作曲されたものを破壊してはいけません。この名曲を楽しんで奏でさせて戴きましょう。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります