やがてくる「いま」のために

チア・シード

コヘレト12:1-8   


若き日に、あなたの造り主を心に刻め。新しい訳はきびきびと、むしろ古き味を漂わせるように訳してみせました。「若き日に」の前の「あなたの」を訳出しない聖書は珍しいようです。当事者意識が少し遠のくように聞こえないでしょうか。正に自分に対して、こうした言葉が突きつけられていると考える必要はどうしてもあると思います。
 
ただ、若き日に、と言われても、もはや若くないという人にとっては、これは取り返しのつかないことを言われているようで、戸惑ってしまいそうです。年を重ねることが私には喜びがない、ああ自分はそれなのだ、と嘆きたくなります。「私には」の後を強調する新しい訳は、ここは辛辣です。そんな年齢になってしまった者として、はっとします。
 
預言者的だと思うのは、いつか「いま」となる「その日」の世界を描くところです。終末を指摘し警告する預言者は数多くいます。天体の異状から人間活動の変化も挙げていき、世界がやがて沈黙の状態へと傾いていきます。被造物たちは、もはや日常を形成できなくなってしまいます。私たちの生活感覚から、なかなか鋭い描き方をしていると思います。
 
塵は元の大地に戻ります。アダムへ告げられていた神の定めが確かであることを、これでもか、と植え付けるような厳しさが襲います。息は、これを与えた神へと帰らなければならないとしています。息というのはもちろん神の霊をも同時に表しうる語ですから、神の息を私たちは神の霊とも呼びます。それは命を与えます。それこそが命となります。
 
しかし世界は、やがてその命を手から零していくことでしょう。こうしてコヘレトはこの書で終始呟いたいたあのフレーズ、「空」なる語の繰り返しを、いままたダメだしのように持ってきて、締めくくろうとします。空の空、一切は空。仏教と同じ語で日本人は聖書の言葉を訳しました。仏教と通じるところが、全くないとは言えないかもしれません。
 
ただ、この空ということは、コヘレトの書の結論だというわけではありません。仏教とは決定的に違います。これこそ人間のすべてであるとするコヘレトの言葉が示す、その一歩手前のところで、今日開いた箇所は終わっています。今日私たちは、あらゆる「いま」の大切を手にしたということで満足しておきましょう。ひとまずは。


Takapan
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