悪くないが正しくない

チア・シード

申命記9:1-7   


うまくいった。守られた。私は正しかった。よいことをしたからだ。ここに違和感を覚えるならば、まだ健全だと言えるでしょう。では、私が祈ったからだ。これはどうでしょうか。神を称えているので信仰深く見えませんか。しかし、祈ったというその主語は私です。ここでも、私というものが出しゃばっていると指摘されたら、反論できるでしょうか。
 
申命記は、イスラエル民族がカナンの地に入ってからの歴史を知っているかのように綴られています。ダビデからの家系の王がどうであったか、バビロンへ惨めな姿で捕囚の憂き目に遭ったことも知っているように見えます。この捕囚の民は、有力者が多かったと言われ、人数としては決して膨大ではなかったように見受けられます。
 
しかし、この事件がイスラエルの歴史にとり絶大な影響を与えることになります。イスラエルの全歴史が問われたことになったのです。かつてカナンの地に入り、そこから原住民を追い払い、その地を占領して住むことができたのはどうしてでしょう。主が約束した地だからだというわけですが、少し勝手な理論のようにも聞こえます。
 
この神的権威によりどうしても譲れない信念があるために、今のパレスチナ問題は解決の糸口がつかめません。主が彼らを追い払った。彼らが悪かったからだ。この箇所は、物議を醸すものでありましょう。一刀両断に、これらの国民が悪かったと定め、だから追い散らされて当然だ決めつけているのですが、それでよかったのでしょうか。
 
私たちはこれを、メタファーとして捉え、受け容れる準備をしておく必要があると考えます。私が正しいから、私に都合のよい結果が生まれた、などとは努々考えるではない、との戒めくらいにしておきたいのです。あなたは頑なだ、と突きつけられた言葉を目の前に常に掲げておくつもりです。主に逆らい続けているではないか、と。


Takapan
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