パンに満たされて主を賛美する
チア・シード
申命記8:1-10
「今日」というのは、日付の今日ではないでしょう。言葉としては「今」に相当するでしょうか。「今」という言葉には、示す時間の「幅」があります。過去から未来まで、緩やかに包んでいるのです。神に出会ったとか救われたとかいう場合の特異な時は「カイロス」というギリシア語で示されますが、それがいつでも「今」と称されるのです。
「今日私が命じる戒めをすべて守り行いなさい」という言葉には、ただ肯くとよいでしょう。「そうすればあなたがたは生き」るのです。アブラハムに主が約束した地に入り、所有することができるのです。モーセを通じて改めて主の物語と律法がもたらされましたが、40年の荒れ野の旅を経て、間もなくその地に入ろうとしている場面です。
この40年間の出来事を、噛んで含めるように神は言い、聞かせます。「すべての道のりを思い起こしなさい」との言葉により振り返るのは、辛く苦い出来事でしょうか。でもその苦しみすら、主が与えたものである、としています。「あなたの心にあるもの」を知ろうとしたのです。その結果、人は知ります。人が生きるのは何によるのか、を。
「主の口から出るすべての言葉によって」人は生きます。礼拝する者に、神は言葉を与えます。神の言葉は人を生かします。それは「今」も同じです。さあ、思い返してみよ、マナだけで生きられたのか。とはいっても、マナも与えられたのです。服も靴も与えられました。子が育つには訓練が必要です。私たちは、生きてゆけるように鍛えられたのです。
「あなたの神、主の戒めを守り、その道を歩み、主を畏れなさい」という命令が突きつけられています。そのように従うことができたら、「良い地に導き入れ」られるでしょう。その地を、この箇所の後半では、たっぷりと描きます。水が豊富です。作物も豊かに実り、収穫されます。そこは「何一つ欠けることのない地」なのです。
結局、「食べて満足するとき」が、神を賛美するときの最終チェックポイントです。イエスも引いた「人はパンだけで生きるのではなく」と告げた言葉は、実のところ満腹をもたらしている点には、あまり触れられていなかったような気がします。この豊かな恵みの地を知って、「あなたの神、主をたたえなさい」へと続いて結ばれている点にも。