古い言葉が生きている

チア・シード

申命記8:1-10   


「今日」というのは、ひとつのレトリックでしょう。出会ったときが、誰にとっても「今日」となるように使われているのだと思います。「私が命じる戒めをすべて守り行いなさい。そうすれば」が問題なのです。以下、荒野の40年を振り返らせ、それが訓練であったことと、その先にあるのが絶大な祝福であることを理解させようとします。
 
この40年で、出エジプトの時にいた人の殆どは死に絶えていたので、そこにいたのは宗教二世です。その民の中で生きるしかなかった、次の世代の人間たちです。自分の親世代が、とんでもない歴史を背負いこみ、その流れに乗って歩き続けるしかなかった人々でしたが、それは現代のイスラエル民族にもまた、関係していると言えるかもしれません。
 
主の祝福に対して、主に感謝するべし、という命令でここは結ばれない。これをまるで主自身が言っているように見えるところが、私たちの思うリアルさと違う点でしょうか。時に「私が」とちらちら現れる主も、この語り手ではありません。語り手はモーセです。モーセは、主から言葉を受け、それを神の言葉として民に聞かせているのです。
 
モーセがこの法を説き明かしているのです。さらにこれを「律法」と呼んでいることも私たちの感覚とは異なります。法律に限らず、歴史も知恵も、何もかもこの「律法」には含まれているのです。「掟」や「定め」はいくらか近いかもしれませんが、とりあえず「法」という語で、これらをひっくるめて理解しておくことにしましょう。
 
主の戒めを守り、その道を進み、主を畏れるならば、主はあなたを良い地に導き入れるといいます。出エジプトの民へのこの上ないメッセージとなりました。苦労を共に経験したモーセから、イスラエルの民への祝福です。本当にこれらを主から聞き、そのままに伝えたのかどうか、私には分かりませんが、非常に筋の通った記述だと思います。
 
バビロン捕囚後のイスラエル民族が、出エジプトの意味を確かなものにするためにも、この文章は必要でありました。それが歴史の波を超えて、こうして縁もゆかりもないような私たちのところへも伝えられてきたのです。私たちが、時を超え所を離れてなお、これらの言葉に心動かされるのは、今が正に「今日」であるからなのでしょう。


Takapan
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